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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

12月23日NHKEテレ「こころの時代〜宗教・人生〜『小さき者に導かれ』」 (2)

Photo 東海林さんは、韓国での救援活動を通し
彼地の民衆神学を知り、触発されていきます。

軍事政権時代、地下で回覧された1973年の「韓国キリスト者宣言」。
そこでは神の意志によるメシアの国は、貧しい人、虐げられた人の安らぐ場と捉えている。
そして「今こそメシアの国を来たらすため、歴史の変革に参与する」と結ばれる。
民衆神学における神とは
個人的な魂のみを清めるものではなく
社会の変革を呼び起こす神。
つまり韓国ではキリスト教は教会だけでなく
時代精神を作っていくのです。

韓国では「教会としての意味とは何か」と
「社会に対しどう責任があるか」という問いかけが
ぴったり一つになっている。

それに対し日本では「この世のことと教会のことがどこまでも交わらない」。
つまりは「信仰の方が大事」なのです。

しかしやはり
「信じていることは行動に現れねばならない」、
「自分が救われているならば、その救いは全ての人に向けられた救いと受け取るべき」
なのです。

キリスト教の根は民衆。聖書のいう「小さき者」。
この世では道具にしか思われていない者の側の視点から見ないと、結局人間の世界の真実は分からない──

東海林さんの聖書には
言葉の一つ一つにみずからの考えがびっしり書き込まれています。
画面に映し出された頁から聖書と共に生き続けてきた濃厚な時間が伺えますが、
私は何かとてもうらやましいなあと思いました。
まさに神の声として生きている言葉と共に生きていけるということ。
神の言葉と自分の言葉を絡ませて真実を模索する人生。
私自身がもとめてきた詩を読んだり書いたりすることを中心とする生き方も、
じつはそうした聖書を中心とした信仰生活と近いものがあるのではないか、と
ふと思ったりしました。

さて、2011年3月11日は
東海林さんに新たな問いを突きつけました。
80年代東海林さんもまた核を人間に対する挑戦と捉え
核時代を生きる宗教者の役割を議論していたそうです。
しかしこの現実の惨状を目の当たりにし、
「おまえは何をしてきたのか? 結局他人事ではなかったのか?」
という衝撃を与えられたのでした。

時代の中で、原発の現地で、苦しみを負わされてきた人々から
自分たちは見えないようにさせられてきた─
私たちは関係ありません、と生きられるように、電線の向こうをシャットダウンできるようにされている─
しかし今、共に生きる、ということから本気で出発するなら
私たちはどんなに豊かになるのか、考えて欲しい─

韓国での救援活動で数々の素晴らしい人間との出会いを思い起こして
東海林さんはそう訴えます。

例えば赤ん坊はどうか。
母親に頼り切りながら
その存在自体が完全なる人間存在ではないか─
子供は本当に信頼に生きていて、そのことで周囲を和ませる、まさに平和のシンボルとなっているではないか─

しかし現在の日本では
そんな純粋な人間の魂まで変えようと「暴力と欺瞞が進行中」なのです。

「人間はもうだめなのではないですか」という徐さんの言葉に
東海林さんは次のような事実で答えます。

1986年スイスで行われたWWC(世界教会協議会)で
韓国と朝鮮が初めて協議を行った。
双方の主張内容はずいぶん違っていたけれど
お互いが耳を傾けあった。
期せずして、それぞれの発題の中で引用した二つの聖句が、同じだった。
一つは「虹の契約」。

ノアの洪水の後で神が二度とこういうことをしない契約をした印が虹。
それは、
つらい雨やひでりに遭いながらそれでも滅ぼされず、生きることを許されている、
というつもりで生きていけ、という印だそうです。

そしてもう一つは、
エフェソ書のパウロの言葉「十字架によって隔ての壁を取り除く」。

この世では敵対する両国が
期せずして同じ二つのテクストを選び、それを通して対話を深めたという事実。
そのことに出席者は感動し
「交わりは可能」という確信をつかんだそうです。

そう、交わりは可能。私もそう思います。
どんな憎しみも乗り越えることはできるのです。
でなければ、なぜ人はここまでその生命をつなげてこれたのでしょうか?

キリスト教でいう「御国」はまだ来ていない─
しかし神の意志は働いている─
それが実際地に起こるようにという願いが祈りの中心にはある─
希望のないところで希望の種は蒔かれていくことにも目を留めていく─

番組のラストシーンでの東海林さんの祈りは
本当に感動的でした。
「私たちが、あなたの省みている人々に対し余りにも鈍感で過ごして来たように思います。どうかお許し下さい。」
「あなたの省みている人々」というのはもちろん「小さき人々」のことです。
「どうかお許し下さい」という
神へのとりなしの言葉は
私の意表をふいにつくものでした。
3.11以後、ある冷たさへと凍り付いていた自分の心が
ふと溶けたかのように
おのずと涙がこぼれていたのでした。

つまりそのように私にもまた
自分でも思いがけない苦しみがあったのではないでしょうか。
誰かに自分と人間全体の悪をとりなして貰いたかったのではないでしょうか。
それをいいうるのは自分ではなく
誰か他者なのでなければならなかった、のではないでしょうか。

その自分の一瞬の涙から、
キリストとは何か、が、内側から分かったような気がしたのでした。