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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(四・終)

3.11は確かに詩を書く者としての私自身にとっても大きな衝撃でした。
これまでの自分の詩を支えてきた、
言語の価値の次元とその裏打ちである感受性を、
いわば下方深くから破壊されたと感じています。
そしていまだその破壊の深さと度合いが自分では分からないままです。
詩を書きつける段になって初めて、その一端が分かるような気がします。
つまり自分ではなく言葉が何を求めているのかを探ることによってしか
それは分からないのです。
そしてその時、私ではなく言葉自身が傷つき変質していることが分かります。
私は本当は傷ついているのでしょうか。
あるいは本当に傷ついているのは言葉自身ではないでしょうか。

「『眼の海』をめぐる思索と思念」に述べられた、
詩を書く著者に見えてきた、言葉と人間との最終的な関係のありさま。
それは明晰かつリアルに剔抉され、大変納得行くものでした。

「出来事に揺さぶられ、わたしの奥底で眠っていたオブジェみたいなものが生き返って噴き出してくるような感じがありました。不思議です。あの出来事はモノ全般や構造物そして人命などに甚大な損害をもたらしましたが、それだけではないのですね。言葉にも相当な、かつてないような衝撃を与えたということです。自分でも考えてもいなかったような想念や言葉、シンタックス(構文)が出てきました。また、そうでなければ嘘だということです。」

詩人にとって
3.11とは外界の破壊以上に無意識の亀裂をもたらしたのです。
「わたしの奥底で眠っていたオブジェみたいなものが生き返って噴き出してくるような感じ」。
そのように自分を超えた自分自身の内奥に沈むことができるか。
今、詩を書く者すべてにその覚悟こそが問われていると思います。

先日話題にしたジジェクの『斜めから見る』(1991)の中で、
チェルノブイリについて言われた「二度目の死」を思い起こします。
チェルノブイリラカンのいう『二度目の死』の脅威をわれわれに突きつけた。(略)われわれの世界の土台そのものが崩壊してしまうように見えるその表象不可能な点に、主体はその存在のいちばんの核を見出さなければならない。つまり、この『世界の開いた傷口』とは結局のところ人間自身に他ならないのである。」

この「二度目の死」が出来した世界では
「一度目の死」(原爆以前の死)の世界でのように
破壊や死を言葉によって象徴化することは不可能なのです。
言葉自身が破壊され象徴化の力を奪われているのですから。

すると、そのような象徴化の力そのものが破壊されたという実相を感知せざるをえない現在、
詩とは一体何であるのか。
はっきりしたことはいえませんが、
散文的な象徴秩序が破壊された後に唯一残される「表象不可能な点」と
対峙できるのはたしかに詩だけでしょう。
それは詩にって絶望的な境位でもあるし、
一方新たな詩的経験の地平が切開される痛点を与えられたとも言えます。

辺見さんの『眼の海』はその痛点に降りたち
「人間という傷口」から見えた風景を受け止めた最初の「見者」の詩集です。
社会には散文的地平が無傷を装い、
人々の意識はファシズムさえも待望するほど偽りの象徴秩序に依然すがりついるわけですが、
そこに「人間という傷口」を拡げることができるのは
新たな次元に降りとうとするた詩の言葉だけなのです。

「『自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代』とは、市民運動をも巻き込む新しい形のファシズムなのではないか。そんなふうに思っています。『眼の海』はファシズムのいまに、わたしという個が、よるべない他の個にとどける『ひとすじの声』なのです。『眼の海』はもはや狂気を隠してはいません。なぜなら、狂気もわたしたちの実像だからです。」

「狂気」という「わたしたちの実像」。
それを自分自身の内奥からの瓦礫として果敢に提示できるか。
詩と言葉の「未来」はそこにかかっているのではないでしょうか。

『死と滅亡のバンセ』は詩を書く者だけでなく、
言葉というものの可能性を諦めない人すべてに読んでほしい一書です。