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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「虻と風になった詩人―追悼・吉野弘」(「現代詩手帖」4月号)

虻と風になった詩人―追悼・吉野弘      

     「緑の葉は光合成をいとなむ/私の言葉は何を?」(『北入曾』扉)                                                     

                                                                     河津聖恵

 吉野弘さんが亡くなった。生前お会いすることはなかったが、時間が胸の高さで過去に向かいおのずと透明化していく。切ない、静かで深い悲しみである。詩を書き始めた高校一年の時、教科書に載っていた詩「夕焼け」をグループで討議したのを思い出す。どんな議論になったかは殆ど覚えていない。ただ私はこんなことを言ったように思う。けなげな娘は夕焼けに気付かない、だが気付かないからこそ夕焼けはより美しく背後から照らしているのだ、と。夕焼けの美しさはたしかに私に届いた。正確には美しさだけが。だが逆光で娘の表情は読み取れず、娘が戻って行く町の夜を想像することもなかった。もちろん淡々と事実を描くこの詩に過度な想像はいらない。だが娘の影と、どこかまだ敗戦の匂いが残る町の重さは、私の未来にたしかに残された(託された)のだと思う。私はあれから透明な電車に乗ったままらしい。その後吉野さんの熱心な読者になることはなかったが、今読み返せば詩を書く者としての自分の原点が鮮やかに蘇る。「I was born」や「奈々子に」から詩の原時空が痛切に、ゆるやかに身を起こし裸の私を包む。  「夕焼け」との出会いから長い時を経た2009年、映画館の闇の中で吉野さんの詩と再会した。是枝裕和監督の『空気人形』で、人形役の韓国の女優ペ・ドゥナが朗読する「生命は」である。生命を持ち始めた人形の、舌足らずなカタコトの日本語による朗読だった。カタコトであるだけに「タシャ」や「ケツジョ」や「セカイ」といった言葉は観念の重みから解き放たれ、春の光と風に融け込んでいくようにも思えた。詩は、現在の殺伐とした町並みと孤独な人々の映像に被さっていったが、それは「夕焼け」の「娘」が戻っていった町の疲れた未来の姿だったかもしれない。

 朗読を聴いてまもなく、2010年私に生まれて初めての在日朝鮮人の友人が出来た。彼女にとっても私が生まれてから三番目の「長い話をした日本人」だった。そのエピソードにもとづいて私は「友だち」という詩を書いたが、エピグラフに引用したのが「生命は」の一節である。また同時期朝鮮学校の生徒たちに宛てて書いた詩「ハッキョへの坂」の、少女たちが笑い合い風や光や花びらの交錯するイメージもまた、「生命は」への遙かな応答だった。「世界は多分/他者の総和/しかし/互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士/無関心でいられる間柄/ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄/そのように/世界がゆるやかに構成されているのは/なぜ?」意識はしなかったが、詩を書きつつ私はこの一節を反芻していたと思う。「セカイハタブン/タシャノソウワ」という響きは、木々のようにざわめいていただろう。人間が、自分が他者の他者であると気づき、他者と「うとましく思うことさえも許されている間柄」であることに苦笑するならば、社会はきっと変わる、変わると気付くこともなく緑の葉の光合成のように変わる―そのように向き直り、新しい友人たちに宛てて胸からあふれるように書いたのである。

 吉野さんの詩は繰り返し読んでも、その時々の私の生きる深さおいてきちんと応じてくれるものがある。テーマ、モチーフ、技法、語彙、世界観、そして丁寧に描かれる筆致。それらが相互に響き合い、詩の空間がそのつど花のようにひらく。別世界へ連れていかれるのではない。私が生きる空間がそのまま透明化し魂が裸形になり、居ながらにして世界は根本的な転換、つまり光合成をおのずと促されるのだ。かつて労働組合運動の専従者でもあった吉野さんの根底には、社会を変革したいという強い意志があった。その意志が詩人を忍耐強い魂の労働者にした。詩「生命は」は芙蓉のめしべの思わぬ形態に対する自身の驚きを、魂の中で丁寧に問い返す作業から生まれた作品だが、小さなめしべから世界全体に繊細なプリズムを当てえたこの詩に、多大な「労働過程」は春の雪のように消えている。その見事な消失の気配にも私は深い感銘をおぼえる。そして「生きる力を さりげなく」(「みずすまし**」)詩の中から持ち帰る。  

   敗戦後の荒野から3.11以後の廃墟へ、吉野弘の詩空間を通し言葉たちはなお「光をまとって飛んできている」。言葉という存在から、忘れていた春の予感がふたたび奇跡のようにふくらみだす。私はまだ自分を愛することが出来るかもしれない。それゆえに他者を。他者の総和としての世界を。だが今光合成の予感は鎮魂と祈り、あるいは絶望とさえたやすく暗く混じり合ってしまう。しかし亡き詩人の忍耐強い囁きが聞こえる。歌とは人間である、人間とは「歌を切望している無の/強い咽喉/太い声/死を蹴る歌そのもの」(「歌」)である―。やがてどんな「時間の虚無」(「ヒューマン・スペース論」)がやって来ようとも、虻と風となった詩人は、永遠の光の側から今を生きる人間の詩を押し返してくれるだろう。「他者」のすべてのざわめきとの、未知なる光合成の方へ。