8月7日、広島滞在の最終日です。
この日は縮景園に行きました。
縮景園は、
広島藩主浅野長晟によって作られた回遊式庭園です。
茶人として知られる家老の上田宗箇が作庭しました。
梅、桜、ツツジの名所としても有名だそうです。
真夏に訪れた同園は、花こそ少なかったですが、
緑と水の素晴らしい、まさに壺中天でした。
しかしここは、原民喜の「夏の花」に「泉邸」という名前で出てきます。
「泉邸(せんてい)」とは、縮景園の明治から戦中までの呼び名であり、
戦後になって「縮景園」が正式名称になったそうです。
「私は泉邸の藪の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまつた。/その竹藪は薙ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径が自然と拓かれてゐた。見上げる樹木もおほかた中空で削ぎとられてをり、川に添つた、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であつた。ふと、灌木の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲つてゐる中年の婦人の顔があつた。魂の抜けはてたその顔は、見てゐるうちに何か感染しさうになるのであつた。こんな顔に出喰はしたのは、これがはじめてであつた。が、それよりもつと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰はさねばならなかつた。」
木陰道に入ると、ふいに陰影深いのでした。
「夏の花」の一節を思い出したからでしょうか。
いえ、
木々の小暗さは
聞こえない嘆きに浸透され、刻まれているのではないでしょうか。
ふと昨日慰霊祭が行われたらしい「慰霊碑」に行き当たりました。
64体の遺骨が見つかった場所だそうです。
1987年、発掘された遺骨だそうです。
縮景園は避難先に指定されていたために、
多くの人々が逃げ込んできた。
しかしここにもやがて火が木々に燃え移り、
竜巻が起こり、
おびただしい犠牲者がそのまま埋められたのです。
8月7日の空です。
昨日は雨空でしたが、69年前のその朝はこのような美しい夏空だったのでしょうか。
最後に訪れた広島港です。
こうして二泊三日の広島の旅は終わりましたが、
過ぎてゆく風景の一つ一つが、心に何かを刻んでいきました。
京都に帰ってから
原民喜論を書き出しましたが、
幼少期、夢想がちだった詩人が緑と水のゆたかな故郷で見たものを、
私も共に見ているかのように
おのずと筆は進んでいき、無事脱稿することが出来ました。
タイトルは「ガラスの詩獣」です。
広島に行かなくては感得できなかった
原民喜という詩人の、ガラスの手触りがあったのでした。