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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

反ネクロフィリア

現代詩文庫所収の黒田三郎さんのエッセイ「詩人とことば」は、Image508
平易で明快ながら、詩を、その時代を生きる人間のただなかから生まれる
「生きたことば」であると考える
至極まっとうな主張に貫かれ気持ちがいいです。

「自分たちの生きたことばをもつということは、ことばを現代日本の社会に生きているひとりの人間の行動において考えるということになる。ことばとそれがあらわす事実や経験との間に、激しい緊張があってはじめて、ことばは生きる。日常生活において、われわれのことばを支配している法則は、詩においても決して死にはしない。」

ことばとそれがあらわす事実や経験とのあいだにある「激しい緊張」。
それがことばを生かしめ、詩の生命を輝かせる。

つまり、自分が詩として表現したいと直感した事実や経験があったとします。
それはことばとの葛藤をかぎりなくよびさましますが、
その葛藤がまた、事実や経験から新たな意味やイメージをつぎつぎ触発し、
やがては事実や経験の側から不思議な叡智がいきづきだし
ふいに詩人の無意識に何かをつげるでしょう。
それが詩=「生きたことば」が生成する瞬間ではないでしょうか。

ところで今日、
同志社大学で行われた「朝鮮学校の『高校無償化』問題を考える関西ワークショップ」に行ってきました。
大学教員の主催する会でした(なぜ大学教員がこの問題に関わるのかは、大学入学資格の認定基準と今回の朝鮮学校の無償化除外との深い関係からですが、そのことについてはまた後日書きます)。
そこで発言されたある教員の方の言葉が
今「生きたことば」と関連しふと思い起こされました。

レバノン出身のオーストリアのある研究者が
オーストリア政府の多文化主義を皮肉り
ネクロフィリア」(死体愛好)と名指したそうです。
彼地の政府は民族教育に介入して反抗しないものだけを多文化と認めるという意味で。

(唐突なようですが)黒田さんのいう「生きたことば」は
現実や真実と解離した言葉を愛する「ネクロフィリア」みちみちるこの社会の言語状況
に対峙するものだといえるでしょう。
とりわけ今回の朝鮮学校の問題をめぐるメディアや市民保守の言語などはこぞって
ネクロフィリアのことば」である、とハッと気づきました。
とすると「生きたことば」であろうとする詩が
この問題に関わるのは当然であるはずです。

写真は帰りに鴨川にかかる橋から北山の方を見て。
いいお天気でしたね。