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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「瓦礫の中から言葉を」を見て(四)

さらに、辺見さんの言葉(必ずしも番組で語られた通りの再録ではありません)を、核として
私なりに勝手に考えをめぐらせていきます。
辺見さんの言葉は
一人一人を、それぞれの深淵へと戻る勇気を与えてくれるものなので
私も応答をつづけながら
忘れていた背後の闇を触知していく気持になります。

実は、3・11の事柄の経験したこともない巨大さから、
いろいろな、危ない事象が、今、芽を出し始めていないではない。
それは、一つは今回の物事を宗教的な予言のように
或いは誰かが言ったかもしれないけれども、天罰が来たとかという形で、
今度のわれわれの経験というものを回収して行く。
こういう思考のプロセスは、きわめて危険だと、私は断言したいと思うんです。
そうではない。これは天罰では断じてあり得ない。
いわばキリスト教的な黙示文学を思い起こすのだが、
イメージすることは、別に罪ではないし、悪いことではないが
ただ、これに拝跪して行く、跪いてしまうのは、違うのではないか。
そこからは、立ち上がる術がない。人としての希望があり得ない。
3・11がわれわれに根源的な認識論上の修正を迫っている。
世界認識上あるいは宇宙認識上の改変を、あの未曾有の出来事は僕たちに迫っている。

今回の巨大で絶大な出来事が起こったのはなぜか。
それを例えば私たち日本人が神に祈らなかったからだ、と難じる海外の人々もいるそうです。
たしかに私たちの多くは西欧的な神に祈ることもないし
昨今は、日本固有の神々やそれらが象徴する自然に対しても
畏れを忘れていた。
それらの前で自分を無にすること、自分がとるに足らないものであると
感じる謙虚さも余裕も失い続けてきた。
しかしだからといってこれが天罰だとこともなげに言ってのけ
神を信じなかったからだと決めつけることこそが
むしろ不遜ではないでしょうか。
黙示録的なイメージに拝跪すれば
結局は自分が作りだしたイメージに言葉もなく虫のような押しつぶされてしまう。
それは、私もまったくちがうと思います。
辺見さんが言うように、私たちはこれからこそ
人としての希望、立ちあがる術を、根源的な認識論上の修正のうえで
つかみとらなくてはならないはずです。
そのためにこそ
イメージに回収されない詩の言葉の存在が輝きだすべき時だと思います。

私たちの命というものが何て短いんだろう
何て予定されてないんだろうということに、打ちのめされたわけです。
そして、小さな命というものが、簡単にモノ化されていくということ、
そして、宇宙の悠久の命というものが、実は交差し重なり合い、
肌と肌を合わせていること。
その恐怖と恍惚を、法悦というものと畏怖の念の両方を、
今度、私は自覚したわけです。

虫であれば、今回の巨大な出来事を前に恐怖しか感じないでしょう。
しかし私たちは
命が簡単にモノ化するという認識とはりあわせに
宇宙の悠久の命を感じ取ることができる。
人だけが、人としての絶望の中からこそ、
人としての希望をつかみとるこどができるのです。