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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

いつ、どうして詩を書き始めたのですか

先週の土曜日、ある会である人に、久しぶりそう問いかけられました。
最近は詩を書く者たちも、そうしたナイーブな問いかけをお互いに省きあって、
どんどん前にすすむ一方なのかもしれません。
だから新鮮に意表をつかれた気がしましたし、
そう問いかけられて、とても嬉しかったのです。
詩を書く自分を知って貰う、というのはとても贅沢なことだから。
訊いてくれる他者の大切さをあらためて感じました。

その余韻のまま、ここでも問わず語りに。

詩の出発点は、高校一年の投稿です。
今はもうない雑誌ですが、私が高校生の時には、「高一時代」といういわゆる学習雑誌があって、そこに詩の投稿欄が設けてありました。
そこに投稿を始めたのですが、動機としては、自分なりに当時いろいろ複雑な心の状態がありました。

たとえば学校。
中学では割と勉強をがんばって、高校に入りました。しかし入った学校の集団生活になじめなかったし、また思春期ということもあって、家の中でも、家族との関係がうまく行かず、その結果、孤独感、あるいは、どこにもいる場所が見いだせない閉塞感に、くるしんでいました。
ひりひりするそのくるしみのリアリティは、もう正確には思い出せませんが、
自分の声が持てない、自分の声を出せない気がしていました。
当時は、学校の授業も家の生活も、すべてに息のつまるような感じがしていたものです。
いつもこれがすべてだといわんばかりの「日常」
あるいは「集団」。
自分を押さえ込もうとする平板な次元とは別な次元で声を上げたかったのです。
そのような中、詩という形式に出会いました。
といっても誰に習ったわけでもなく、
教科書に出てくる、中原中也や、伊東静雄や、谷川俊太郎の詩や
姉が持っていた現代詩文庫という詩のシリーズで、鈴木志郎康や吉原幸子といった、
かなり現代詩的な作品から、詩の世界に触れました。
もちろんそれらの本当の内容はほとんど分かりません。
ただ分かったのは、
詩というものが、何を書いてもいい、何でも言える、どんな長さでもどんな言葉を使ってもいい、という「自由」の輝きであり、
あるいはコトバによってコトバにがんじらめにされた自分を救う(消す)唯一の方途である、
ということ。
コトバだけでなく、自分のコトバがその下に生み出す余白が、
雪原のように眩しく輝いてみえていました。
まるで未来のように。

やがて見よう見まねで、詩を書き始めました。