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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩の欲望は3.11へ向かって(一)

3月11日以降、誰がどのような詩を書いているか、よくは知りません。
詩としては信じられないほどの低劣な表現の次元にあるにもかかわらず
なぜか喝采を浴びている震災詩があるのは知っています。
しかし今、3月11日以前と同じ日常を、あるいは非日常を信じて書かれる詩に
何らかの意味があるでしょうか。
すでに古代となったあの日以前の石化したことばを、無理に下から積みあげることは
詩の「モニュメント」を築こうとすることでしかないのではないでしょうか。
3月11日以前と同じ日常あるいは非日常を信じて、
あるいは信じることを装って
すでに死んだみずからの詩を延命させて恥じない「詩人」を私は憎みます。

一方で私自身も以前のようには「書けなくなった」という状態が続いています。
しかし何とかあの日に向かう通路を見出したいと願っています。
先日石巻の被災の現場にじっさい立ってみました。
瓦礫の風景から自分に向かって発信されてきたものがたしかにありました。
何がどのようにか分かりませんが
断たれていた外界との通路がふたたび開かれてきたような気がしつつあります。
あの日にあげたまま(奪われたまま)宙にただよっていた悲鳴が
あのとき見て触った瓦礫の磁力によって
ことばと引き合わされつつあるのだと感じています。

今も自分のものでもあり他人のものでもある悲鳴が
音もなく影の焔をいまだはげしく上げている影の3月11日。
そう、あの日は、すべての日々の中でただ一点
影として永遠に引き絞られてしまった日なのです。
死の方へ、無の方へとその日は引き攣れながらそこに永遠に耐えています。
影の3月11日に近付くには
誰とも交信が出来ない月の裏側に行くような勇気がいるはずです。
しかし近付きたいのは正確には私ではないのです。
私ではなく詩そのものがそこに近付きたいと願っているのです。
いま壊れつつある世界においてむきだされてきた、詩。
それはこれまでいわゆる詩史や詩のジャーナリズムやあるいは世俗が
アプリオリに前提してきた「型」と「変異型」ではなく
もっと悲鳴とことばを直接的に接続させる、
きわめて特異なエネルギー場のようなものになっていくはずだと思います。

あのとき、この国は、この社会は、人間は、
修復不能のかたちで引き裂かれ切ってしまったはずです。
ふたたび元に戻すことは物質的なものはともかく
少なくとも精神的な次元では不可能になってしまったと
思い切らなくてはならないと思います。
元に戻すのが絶対的に不可能であるならば、
もはや絶対的に創造するしかないのです。
さらにこの世に残されたものが瓦礫としてのことばでしかないならば
まず第一に詩が創造を試みてみせなくてはならないのではないでしょうか。
つまり詩は今3.11に向かい
ことばに対するその原初的本来的な欲望を
むきだされたいのちとして差し向けることを
みずからの使命とし始めたのではないでしょうか。少なくともそう思うべきなのではないでしょうか。