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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「愛してる」への渇望──中上健次『軽蔑』

Image1414 6月4日から映画が封切られる中上健次『軽蔑』。
男と女の純愛を、主人公の踊り子真知子の視点から描きます。
映画と原作では少し違いがあるかもしれません。
映画も楽しみですが、ここでは小説の方を。

新宿のトップレス・バーの鏡張りのカウンターの上で踊る真知子は
地上の重力のもとでは生きていけない天使。
その天使の裸体に向かって、闇から無数の男たちが手を伸ばしても
彼女にとって男はただ一人、遊び人のカズさん。

警察の手配を装って起こした騒ぎの中から
二人はカズの故郷(恐らく紀州・熊野の新宮)へと「高飛び」します。

都会では二人は五分五分の男と女として愛し合えたのに
田舎ではカズの親戚や友人知人にとりまかれて
真知子はつねに元トップレスのダンサーとして軽蔑の視線にさらされます。
カズとは「五分五分の関係」ではいられなくなります。

故郷の重力に負けたように真知子はふたたび新宿へ。カズもやがて追ってきます。
だがカズは故郷にいる間、真知子の出奔に絶望し、賭博に走っていたのでした。

ふたたび故郷に帰り仲間に祝福され結婚式もあげますが、
故郷の地にはもう二人の不良天使を庇護するものは何もなく
破滅への道だけが残されていました・・。

以上が大体のあらすじです。
ただ中上健次にとって、物語のあらすじとか構造とかは結果としてあるだけのもの、
という気がします。
書いている時は、そうした外的なものの意識は一切なかったのだと思います。
文章には構造に目配せするような途切れがありません。
語り手真知子の心と体が、そこに触れてくる他者や事物や空気そのものに
敏感なけもののように触発されるその反応を
中上健次は筆の先から次々感じ取るようにして綴っていきます。
作家の筆、というのは作家みずからの日本語ということでもありますが
恐らく生まれ育った新宮の記憶のざわめきと
書いている現在に作家を取り巻く新宿のざわめきの双方が
つまり、作家にとっての日本そのものが
体の中で化合し筆の先で火花をちらして
小説の言葉を生みつづけているのです。

言葉になりえないものを、すんでで言葉へとさらっていく作家の魔法の筆に脱帽です。

この小説の中心人物はカズと真知子ですが
中上健次が憑依するのはもちろん真知子。
言葉にしたい、言葉にならない、ああどうしたらいい・・・と
彼女は花にさえ敏感にふれられられて、その存在全体をいつも喘がせている。
そして「愛している」というただ一言をいうために、万の傷を引き受けるのです。

以下、「愛してる」の台詞のある部分をいくつか、原文の行替えを無視して引用します。

「驚いたように真知子のほうに振り向くカズさんのその眼の涼しさ、頬の浮かんだ明るい微笑に促され、もっと綺麗な言葉がある、もっと深い豊かな表現がある、しかし今はこれしかないと、自分の言葉の貧しさを心のどこかで嘆く声を耳にしながら、真知子は、『愛してる』と言った。」

「『愛してる』、真知子は冷たい肌のカズさんに頬を寄せ、耳元にささやいた。『愛してるよ、愛してる』真知子は、その愛という一語が、死んだカズさんを蘇生させる呪文だったように、優しく息の多い声で、ささやき続ける。執念深い蛇のような身にでもなって、向こうに行ってしまったカズさんを追って連れ戻してくるというように、カズさんの体に微かに残っている魂に語りかけた」

「愛してる。真知子は呪文を唱えるように、心の中で言う。愛してる。何度、呪文のように言い続けても、奇蹟の徴も起こらない、空疎な言葉にしか響かないが、今はここで、そう言うしかない。愛してる。白んだ空に、一つ、異様に明るい光を放つ星があった。水平線のあたり一面が、朝焼けで、朱色に燃え立っていた。」

この小説を読みながら気づきました。
今この世界にもっとも足りないのは
「愛してる」と全身全霊をかけていうその一言なのだ、と。

中上健次の言葉の深さの次元から
この世への真実の渇きが湧いてきて、外にふる雨を思い存分浴びてみたい気持になりました。

なお、映画は4日から封切られます。
予告はhttp://www.youtube.com/watch?v=tuuoWSJEl0gで見ることができます。
新宮でのロケも地元で話題になりました。