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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『水の透視画法』(二)

この一書にある言葉は
低く、静かに、無彩の薄闇に沈められています。

その闇とは
この世界の表層を覆い尽くすうすっぺらな
だからこそ執拗で透明な危機的な闇でもあり、

また、世界をひそかにいきづかせている者たちがいる母胎のような
あるいは地獄のような闇でもあります。

その闇はこの書の中で次々と具象化されています。

世界の残像としてのモノクロの褪せた色であり
盲人の乳白色の闇であり
刻々と流れ去る時間の流砂そのものであり
思念と言葉とのあいだに見つめられる空虚であり
死者たちの影が兆す気配であり
ヒカリゴケや螢がひそかに息する屍の重たく湿った気配のする闇であり
いとしい人が今孤独な眼を深くし佇む生死の汽水域であり
マスから絶対的に孤立する単独者の位置であり
痛みに奏でられる身体の苦しみそのものであり
この社会の書き割りの陽画にひそむ死刑の陰画であり
善悪を透明に混濁させて拡がるすさみの本当の姿であり
「パレルシア・・・」という誰のものでもない声がきこえる井戸水であり
不逞、反骨、すね者たちのいた闇であり
………

私たちが今生きる世界は
それら正の闇、負の闇がじつはせめぎあっているのです。
闇と闇がせめぎあいながら過去の膨大な宇宙へと流れ込んでいくのです。

そうした世界そのもの、あるいは時間そのものの蠢きが
詩人の筆致に
「すべてにつながる」という感触を持つ脈動を伝えているのです。
社会問題や歴史問題にも鋭く切り込むときも
この脈動は決して途絶えないのです。

歴史とは、文言である以上に、主観的情念であり、代をつぐ映像的記憶である。
                                                         (「少女と白い犬」)

これは北京五輪のさなかに訪れた抗日戦争記念館での感慨です。
鋭い歴史に対する感覚(「歴史感」とでもいうものか)だと思います。
歴史は客観的なものとしてあるだけではない。
私たち一人一人が、思わぬ情念を引き出される映像の体験を積むことでもあるのです。

小林多喜二の虐殺についての次の「色彩感覚」が
その見事な例証にあたると思います。
ああ、歴史とはそうなのか、と私は身体のふるえをどこか伴いつつ分かった気がしました。

多喜二といえば、なによりも「墨とべにがら」の色がうかぶ。「……墨とべにがらとをいっしょにまぜてねりつぶしたような、なんともいえないほどのものすごい色で一面染まっている」。多喜二の遺体を見た作家、江口渙の文である。みごとな直喩に、学生だった私はこころを染められた。おびえてふるえて、「墨とべにがら」ということばの混色を、まねたくても絶対にまねたことがない。(「SFとしての『蟹工船』)