「被害者がみずからの加害性を深く、繊細に、痛々しく見つめることによって、
そこまで被害者を追いつめたシステムの悪の真の姿が顕わになっていくはずです。
加害性の認識とシステムに対する告発は、その深さにおいて、連動するのです。」
と私は昨日の記事で書きました。
しかし、私たちはナチの被害者でもないし、
もちろんナチのような加害者でもない。
とても曖昧な被害者であり、加害者ともいえるわけです。
このブログにコメントされる多くの方が指摘されるように
被害者でもあり、加害者でもある、ということです。
しかしそこにはもちろん「曖昧な」という限定が付くはずです。
あなたは何者による被害者なのか
そして何者に対する加害者なのか
と訊かれれば、私もまた明確には答えることができません。
だからといって、被害者である部分と加害者である部分は
つねに変動していて、その危ういバランスを取りながら
今ここに私が存在している、などと都合よく言うこともできません。
いずれにせよ被害者と加害者というのですから
そこには何者から私に対して加えられた
そして私から他者に対して加えられた何らかの「犯罪」が存在している。
それはなぜ罪なのか。
その基準は何か。
それはいつから始まったのか。
それは具体的なものか、抽象的なものでもあるのか。
(それは必ずある。たとえ観念的であったとしても、とりわけ加害者である実感を手放してはいけないと思う。しかし被害者、加害者として自分を分析することはたしかに苦しい)
問題は、詩を書く時です。
レーヴィのように被害者の中の加害者として(つまり最悪の被害者として)書くことはできるのか。
いや、私がレーヴィのような被害者であるはずはありません。
そうした問いかけに対する答えを探し当てられないのならば
無理に加害者としての自分を見つめる必要もなく
被害者である自分をも大切にしてもいいのではないか。
曖昧な被害者や加害者といった問題から等距離をとり、中立地帯で何者でもない者として、日常の私や、非人称の私を信じて書いてもいいではないか。詩とは「作る」ものなのだから。
いいえ、そうではない、とやはり思います。
詩を書く時、私の中心にあるのは痛みのはずです。まず他者(の痛み)から受けた痛み。
他者の痛みでもありながら、詩を書こうとする段に
私自身の痛みにもなりかわってしまうもの(その逆もありうるのか)。
そしてその時私は他者に痛みを遥かから加えた者として加害者であり、
他者に浸透し交わってしまう者として被害者であるのではないだろうか。
かつてこのブログでも書いたリンギスの言う「黒い光」のように、
自分が受けた痛みは、普遍化されなくてはならないのです。それが私の痛みでなく他者の痛みであればなおさらだと思います。そして黒い光のように逆説的な光が生まれて来てくれれば
たとえレーヴィに比べれば何万分の一の力であったとしても、言葉の持つ微細な力が、システムをも照らし出す詩の力となりうるかもしれない。
それは一抹の賭けであったとしても、それ以外に私が出来ることはないのです。
詩が作るものである以上に、うたうもの、うったえるもの、であるならば。