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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

本日の朝日新聞夕刊(東京版)に詩「サラム」が掲載されます

今日の朝日新聞夕刊(東京版)に詩が掲載されます。
昨年12月に江東区枝川町にある東京朝鮮第二初級学校で
取り壊される木造校舎のさよならイベントの一環として朗読会を行った日のことを
思い出しながら書いた作品「サラム」です。

枝川とは何か。
1920年代から30年代のいわゆる大量渡日期、
埋め立てや荷揚げ、河川や道路工事、さらには各種工場で主に雑役夫として働く在日朝鮮人が、江東地区に大勢住んでいました。
とりわけ塩崎、浜園の岸辺や湿地の未使用地にバラックを建てて住んでいました。
しかし1936年にIOC総会で1940年の第12回オリンピックの開催地が東京に決定すると、塩崎、浜園が会場や関連施設用地とされます。
その結果、これまでも当局が「不法使用」として問題視していたバラックの撤去がついに始まります。
住民はもちろん抵抗しますが、当局は枝川に簡易住宅を建てて移転させようとします。
ところが、日本が中国大陸で侵略戦争の泥沼に突き進む中でオリンピックは開催直前の1938年に中止に追い込まれます。
しかし枝川への移転は強行される。
当時の枝川は埋め立てを終えただけの未整備の荒れ地で、
ゴミ焼き場と消毒所のほかに建物は一つもなかった。
移転はいわば孤島への収容なのでした。
こうして枝川に、ある日こつぜんと1000名を超える朝鮮人集落が出現したのです。

イベントの当日、豊洲から枝川に向かう時、あさなぎ橋という橋を渡りました。
行きは急いでいて何気なく渡ったのですが
帰りに真っ暗な川面にビル群の煌めきが映るのを眺めながら橋を渡った時
「この橋はいつ出来たのだろうか」とふと思ったのでした。
収容当時はもちろんなかったはずです。
その橋を今、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を朗読した私たちが
朝鮮の人々と共に渡っている。
背後で同じく川面を眺めていた若者の一人が
「国籍なんか関係ない、人間であることが大切なんだよ」と友人にかたる声がきこえました。

「人間であることが大切なんだよ」

私はそれを橋そのもの、いえ、およそ六十年前、橋を渡れなかった人々の声、ひいては川向こうに残してきた無人の校舎、そしてそれを取り巻く変わらぬ闇が放つ声のように聞いたのだと思います。
そして闇はそのとき輝いたのでした。

「サラム」は短い詩ですが、以上のような経験を私なりに凝縮した詩です。