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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『瓦礫の中から言葉を─わたしの〈死者〉へ』(四)

辺見さんのこの著書の核には詩人石原吉郎の次のことばがあります。

私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。

「告発しない」とは、
現実から、あるいは告発する集団から、あるいは集団的な告発のことばから距離をおくこと。
そしてただ自分の〈位置〉に立つ、つまり単独者としての自分のスタンスを護り続ける。
この一文はそうした態度表明です。

シベリア抑留生活を体験した石原は、
歴史の暴力がどれだけ苛酷で宿命的なものであるかを、体で知っているのです。
つまり飢えや寒さや恐怖に耐えるのはたった一人のこの身と魂でしかないことを。
そして死者もまたそうした単独者のまま死に向かったことを。
だからヒロシマなどに対する集団的な告発をよしとはしないのです。
それは集団的な告発に対する告発というよりストイシズムです。

辺見さんはいいます。
「わたしはこの文言に何年も何年も遅疑逡巡してきたのです。遅疑逡巡は、3.11以降、わりあいはっきりとした反対へと変化しました。」

しかしかつては賛意の方がまさっていたのでした。
「八月六日は、おためごかしと言わないまでも、年中行事化し、もちいられる言葉は、死者たちひとりびとりの魂を、死者群として括ってきたぶんだけ、空洞化していたのでした。石原吉郎の言葉にはそうした空洞を埋める力と切実さがあったのです。もっと言えば、シベリアからもどってきた石原の生身と言葉は、この国の戦後史の黒く醜い��欠所�≠�細々とおぎなってきたのです。」
私は石原のことばに対するこの辺見さんの感覚はよく分かります。
石原のエッセイや詩を読むとき
日本の曖昧な集団主義の空気からひんやり外れて
生と死の壁につねに向き合うはりつめた声を聴くことができます。
もう意味もなく笑うな、一人一人真剣に悲しめ、生きることにある無限の苦悩を思い出せとそれは言っています。
その詩はいわばモノクロの世界です。
事物は語られながらも具体性を持つことなく、
絶対的なものとの位置関係をまさぐりながら
錯綜しつつ文脈はある決意へと向かっていく。
まさに単独者の、自身が死へ向かいつつあることを自覚している詩です。
あるときは繊細な琴線にふれつづけるように甘美で
あるときはほそいピアノ線に切られるようにつらい。
石原のそんな詩とことばを
じつは私は最後まで読みながらも
最後までたどり切ったという実感を持ったことがありません。
詩と共に最後まで歩んでいるようには思えない。
最後にふっと置き去りにされるのです。
また意味も読み込もうと思えば、ある深さで置き去りにされています(私の読みがまだまだ鈍感なのだと思うのですが)。

辺見さんは3.11以降、石原の告発への忌避について
「わりあいはっきりした反対へと変化した」のですが、
それは3,11が辺見さんの中にそもそも石原に惹かれつつも一抹あった疑問を
つよめたにすぎないといいます。
ヒロシマについて、さらにはフクシマについて
単独者は告発してはいけないのか。
「計量的発想と死の類化」にはたしかにつよく告発すべきだが
たった一人の生と死を越えるのではなく、それをとおして
あらゆる死者に向かってはいけないのか──

「過去および現在の死者から、未来の死者の悲惨まで先どりする試みは、不遜どころか、いますべきことではないかとも思います。告発しないのではなく、自分の〈位置〉に立って自他を告発することこそが、『私』という単独者を責任ある主体にする契機になるのではないでしょうか。
 目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることが、いま単独者のなすべきことではないのか。そうわたしは自身に言いきかせるしかありません。」

「視えない死」。
それは視えないからといって抽象的な記号ではありません。
私という単独者の想像力が遙かにとらえる濃厚なリアリティなのです。