あと一篇だけ(これ以上取り上げると、全作をここで公開してしまいかねませんから)。「蒼い空の芯で」。
これは雑誌「環」で見たときにも、感銘を受けましたが、
詩集であらためて読むとまたひとしお
声なき者(詩人をも含む?)のこの世での宿命的なあり方を
私の喉元から知らしめてくれるようです。
ぼくは声を持ちません。
声を上げるだけの寄り場が
ぼくにはありません。
くぐもってばかりで
声はぼくの耳でだけ鳴っています。
ぼくは知らせる手立てを知らないのです。
ぼくは情報機器のいかなものにも
属しません。置いてけぼりの
声だけが耳の底で鳴っています。
いまにいまにと思いつづけて
風のように言葉はいつも
音だけを残していきました。
いつ見ても小高い丘の
大学の学舎は黙っていて
固い木の実は それでも
その中に落ちているのでした。
(第一連から第三連)
この「ぼく」は一体誰なのでしょう?
「情報機器のいかなものにも」属さない、
この社会に存在が把握されない声なき者。
声を持たないのは唖者だからというのではないでしょう。
「声を上げるだけの寄り場」を持たないからです。
ここには在日という言語的にも境界的存在である詩人自身の
よるべなさや閉塞感が反映されているとも言えるし、
それを越え、「知らせる手立て」=つながりを一つまた一つと奪われ
この社会から排除される声なき「無縁者」を表すともいえるでしょう。
いずれにしても透明な存在です。
また
「風のように言葉はいつも/音だけを残していきました」
とその後の
「大学の学舎は黙っていて」
とは深い対比があるのではないでしょうか。
言葉には音=話し言葉としての側面と文字=書き言葉としての側面がありますが、
無縁者である「ぼく」にふりつもるのは前者、
その一方「大学の学舎は黙って」固い木の実のような文字を
今日も自分の閉ざされた内部にだけ落としている。
前者はこの詩集のキーイメージである「葉」と
後者の「木の実」は同じくキーイメージの「種子」と
連関があると感じます。
(風にそよぐ「葉」と意志のように落ちる「種子」は、共に詩の可能性を暗示しているとも思われます)
話し言葉と書き言葉や、
ひいては制度化されない民衆の言葉と国家が方言などを抑圧して制度化した「国語」を
対立させたい思いがここにあるのでしょうか。
最後の二連です。
耳をつんざいて轟音は噴き上がり
声は中空で浮塵子(うんか)のようにたかっています。
いまに群雀が群れ
空が払われて
冬がきましょう。
言葉がそこらで降り敷いています。
耳をそばだてて
ぼくがいます。
空の芯ではじけている
何かがたしかにあるのです。
変われないぼくを
愛してください。
(第五連から第六連)
「轟音」とは戦争に関わる何かでしょうか。それに向かって声が浮塵子のように上がっていくのでしょうか。そして「冬」という冷たい無縁の時代が来て、言葉たちは悲しい重力によって降り敷くのでしょうか。
しかし「空の芯ではじけている/何かがたしかにあるのです」。「はじける」それは、空の蒼(「青」ではないところに注目)となって流れる世界の血が生み出した種子のようなもの。「ぼく」が変われないから、それはふたたび生み出されたのでしょう。
聞こえない声たちが孕みつづける子供のような「ぼく」は、
最後に誰かに向かって語りかけます。
「愛してください。」
かすかな声として
しかし究極の命法によって
この世の薄い空気をふるわせ、蒼く滲むように無縁者としての自分の存在を知らしめるのです。