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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

62年前の今日という日に

昨日につづき、「関西ワークショップ」から学んだことです。

当日は短い時間で駆け足ながら、
様々なテーマや立場や次元で、事実や見解が述べられていきました。
その中でまさにワークショップが開かれた4月24日というその日が
はからずも「阪神教育闘争」の日であると知らされました。

レジメの中で、今回暴言を放った大阪府橋下知事への反論の部分において、こう書かれています。

大阪府朝鮮学校の関係:1948年の阪神教育闘争の時に、多くの朝鮮学校を強制的に閉鎖し、平和な抗議活動に発砲し16歳の少年が射殺されるという一連の事件が大阪府内で起こり、大阪府も深く関わっている。」

阪神教育闘争。
私はこの除外の問題を知るまで、そんな歴史的な事件を
恥ずかしいことですが、聞いたこともありませんでした。
以下、調べたことからまとめます。

日本の植民地時に母国語と文化を奪われた在日朝鮮人
祖国の解放後、朝鮮語を教える国語教習所を各地に作り
その教育網は急速に拡大していきます。

しかし時代はまさに朝鮮戦争の前で
朝鮮半島を占領しようともくろむアメリカは
そうした民族教育を治安問題と考え、
GHQと日本政府(日本もまた戦前のまま同化政策をつづけたかった)
を通じて弾圧を加えます。

1948年1月24日
文部省は朝鮮人学校の閉鎖を求める通達を各都道府県に出し、
3月末には山口、4月には岡山、兵庫、東京で閉鎖令が出されます。

朝鮮人たちは各地で抗議のために集会をひらきます。
4月24日には「非常事態宣言」が発せられました。

大阪府下の集会では25日には2000人が無差別逮捕される。
そして26日に
16歳の金太一という少年が警官に射殺されます。
誰が命じたか分からないといいます。
そして27日に亡くなりました。

その翌年にはさらに大規模な弾圧が加えられ
350弱の朝鮮学校は非合法の存在となり
在日朝鮮人は自主学校や日本の学校民族学級という形などで
民族教育を続けることになります。
つまり民族教育受難の時代のはじまりです──

私はこれらの事実を知ったばかりなのですが、
62年前の昨日という日に撃たれ
62年前の今日という日に息絶えた少年のことを
忘れてはいけないし
知らなかったのならばあらためて記憶しなくてはならないと思います。
これまで一度も知ることがなかったその少年のことを
想像してみれば眩暈さえします。

その日は雨がふっていたのか、晴れていたのか。
少年は心配する親に何と言って家を出たのか。
会場に着くまえに何を見て何を想ったか。
集会ではおおぜいの大人たちに混じってどんな気持になったか。
その胸にひととき希望が明滅しただろうか。

しかし銃声が聞こえ、逃げまどう人々の悲鳴と怒号がみちるなか
彼の時間は永遠に撃ち抜かれました。
最後にどんな絶望の中にいたのか。
沈黙のまま逝ってしまったのか。それとも何かを語ったか。

少年のことは私は何も知りません。
しかしこれから想像することはできるのです。

いまだ歴史になりえないその生々しく切断された時間の断端は
雨の降るこの今日という日に向かい、
何かを語りかけようと闇の中で身じろぐように思えてなりません。