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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸「水の透視画法」

また、私が共同通信の配信で楽しみにしているのが辺見庸さんの「水の透視画法」。
昨日23日付の東京新聞夕刊で読みました。
今回のタイトルは「ニセの諸相−−アカシアと民主党」。
タイトルから惹かれます。
いつもこの作家の文章は導入がすばらしいのですが、
今回は、北京の秋、桔梗色の夜ふけに、美しい英国人女性が発音したニセアカシアの英語名「スードウアケイシャ」から展開します。
「『ニセといってもニセアカシアじしんに罪はないのよ。想像妊娠に悪意がないように』。だが、フェイクをこしらえる者には責任がある、とでもいいたげだった。そのことを近ごろしきりにおもいだす。もしも、いま眼に見え、耳に聞こえているものを、現にそこにそのように在る、と赤子のようにうたがわないでいられたら、苦悩がないという意味あいでは大いなる幸せであるとともに、思惟することを課せられた人としてはたとえようもない不幸である。」
この箇所の末尾にある「たとえようもない不幸」は、今の社会の良心的な層から滲むかなしみをいいあてていると思います。
そしてこのエッセイの終わりのほうでは朝鮮高校無償化除外案についても書かれています。今回の政府の方針について、政治と教育の混同を指摘し、「初歩的合理性にも最低限の道義にも欠ける」といっています。
そしてその理由を示したあとで、、
「にしても悲しく苦々しい。ここにきてあちこちで起きている在日コリアンいじめに手をかすような��朝鮮学校は対象外�≠フ方針は、この国の文化の根底にかかわるどこか因習的な病質をふくんでいはしないか」。
ここで言われる「因習的な病質」とはまさにいいえて妙です。
今の事態を因習なのだ、病なのだ、と言い直してみれば、
まさにフェイクの仮面はたやすくはがれていきますが、
しかしみえてくる闇の顔はフェイクという浅さにまもられていたものだけに、
おそろしく不気味なものではないでしょうか。