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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「『天秤』と勇気」 竹村正人

6月8日付のブログ記事で取り上げた詩「詩人は −渡辺玄英氏に」を書いた竹村正人さんから、「『天秤』と勇気」というエッセイの投稿がありました。中身が濃く、コメント欄にアップするには勿体ない気がしましたので、本欄に掲載することにしました。
6月8日付のブログ記事のコメント欄では、賛否両論、様々な意見が交わされました。そのことも踏まえてこのエッセイは書かれています。また後段は、前段とも関係して、そもそも事の発端である私と野樹かずみさんとの共著『天秤』評となっています。冒頭が少し引用されていますが、分かりやすいように、コメント欄に『天秤』冒頭部分を紹介しておきますので、ご参照下さい。
私もまた、批評してもらった当事者として、返礼の意味もこめてこのエッセイに対し、いずれこの欄にて応答したいと考えています。

竹村さんの問いかけを、みなさんはどう受け止められるでしょうか?

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『天秤』と勇気
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●詩を愛するみなさまへ

 この間、河津さんと野樹さんの姿勢/詩性に対して、いろいろな方が様々な形で忠告をなさっていることは、親切心や慎重さからだと思いますし、私としても理解できることではあります。
 ただ、わかっておかなくては、と思うのは、野樹さん・河津さんが、客観的な思考・傾くことの危険性・相対的な視野などを、意識したうえで、なお、あえて下降することを選んでいる、ということです。この点を理解したうえでの、発展的な議論がなされることを、私は期待しています。

 その証拠に、河津さんのこれまでの作品は、特に政治性が強かったわけではなく、どちらかというと政治と距離を取ったものが大半だった思います。それが悪いというのではなくて、事実としてまず、バランス感覚の優れた人だと思うのです。評論『ルリアンス』などでも、最近のような政治的に踏み込んだ話題は扱っていません。
 これが変わったのはおそらく『christmas mountain』と『新鹿』あたりからです。私としてもそれ以前の作品は美しいと思いますし、「月ノ光」などは特に好きな作品ですが、ここにはまだ、藤井貞和さんが湾岸戦争の時に見せた、危険な賭けをする詩人の姿はありませんし、あるいは金時鐘さんが金芝河について言うような「“醜”を生きる思想」は伺えません。

 ですから、美しい詩を書いてきた河津さんは、下降することの代償、危険性を百も承知だろうと思うのです。それを知ったうえでの勇気ある一歩だということです。
 なぜ詩壇はこの生成変化を肯定的に受け取れないのでしょうか。田中庸介さんのような評は論外だとしても、この下降を否定的に見る人は多いのではないでしょうか。たしかに「美しさ」を重視する立場からは、否定的な意見が出ることはわかります。しかし、このことを肯定的に捉えられない限り、湾岸戦争詩論争から何も学べないままの詩壇は、変わることができないままに閉塞していくだろうと思います。瀬尾育夫さんの『戦争詩論』が何ら重要な点に踏み込んでいないことは、その象徴でしょう。あるいは藤井貞和さん(私の最も尊敬する詩人です)の『言葉と戦争』が、『湾岸戦争論』よりもはるかに勇気を失ってしまっていることも、詩壇の強いた閉塞感ゆえなのではないかと思います。
 『現代詩手帖』だけの問題ではありません。2009年3月号で「言葉と戦争」特集を組んだ『詩と思想』では、藤井さんの『言葉と戦争』を褒めるだけで、立ち入った議論はなされていません。小さな詩誌『紫陽』16号で藤井貞和特集が組まれていたのに(2008年9月)、全く生かされなかったことは残念です。

 この状況を打開したい、もっと互いに議論し合い、下降することによって高め合いたい、そのような想いから、「詩人は −渡辺玄英氏に」という詩を書きました。

●私なりの『天秤』評
 少しだけ、『天秤』の入り口で私がどのように震えたのかを示します。まず、野樹さんが冒頭に置いた、ふたつの短歌です。

天秤は(十字架)悲惨なもののほうへはげしく傾く 見捨てられつつ

アッシジのフランチェスコをおもうひとは、それゆえに坂を降りていった

 ここには、天秤のはげしく傾くことにうたれたひとりの詩人が、坂を降りてゆく、決意の背中が描かれています。これに対して河津さんが応えます。

今日を裸形に明日から昨日へと降りていく
左手に幼な子 右手にスーパーの袋
無垢な魂と売れ残りの硬いパンには 世界を静かに引き降ろす力がある
あなたは身を任せていく

 そう、スーパーなのです。90年代はじめ、三里塚から遠く離れたスーパーで、耳鳴りに立ち止まる女性を描いたのは佐川亜紀さんでした(「人参畑で耳鳴り」『魂のダイバー』所収、1993年)。その苦闘を引き継ぐかのようにして、河津さんは、スーパーの袋をリレーしています。そしてここには、フィリピンの貧しい街で見る涙の塩パンでなくとも、売れ残りの硬いパンからわれわれは下降するのだという、出発の意志が示されています。スーパーにひとつの<路地>を発見していること、これはものすごいことではないでしょうか。

 わたしは、フランチェスコをおもうひと、詩人に、イエスの姿を重ねます。イエスは、悪人もまた救われると説いた平等主義者ではありません。そうではなく、悪人(つまり貧しくて罪を犯すしかなかった人、虐げられている奴隷たち)こそが、救われるのだ、と説いたのです(滝澤武人『人間イエス』)。つまりイエスは、今日でいえば、ものすごく偏った考えの持ち主でした。しかし誰がイエスを指して「バランス感覚に欠ける。偏っている。」と非難するでしょうか。イエスはひとりの人間です。そして詩人もまたひとりの人間です。だとすれば傾くことを恐れない勇気をこそ、われわれは受け取るべきではないでしょうか。
 わたしはまた、マルコムXを想います。マルコムはキング牧師とちがって、暴力を肯定する過激な人物だと思われがちです。しかしマルコムは、キングを批判しながらも、自分がより激しく白人社会から敵視されることで、キングが動きやすくなるだろう、と(皮肉まじりにではありますが)語っています(酒井隆史『暴力の哲学』48頁)。マルコムは分かったうえであえて下降するのです。彼は決して攻撃的な暴力を推奨したのではありませんが、しかし犯罪でしか表現することのできない黒人たちの気持ちを実感として理解していたのでしょう。

 いま、日本の詩人に問われているのは、この勇気だと思うのです。醜を抱え込む勇気、美しさを代償にしても下降しようとする勇気、愛することを恐れない勇気です。金時鐘さんはかつて言いました。

 醜を抱え切れない純一性こそ、ファシズムではないかと思い当たるのです。日本の思想が恐ろしいとすれば、端正さを貴重がる美の思想のような気がしてなりません。これへの志向がピラミッド状をなして、その頂点に天皇があるように思えるのです。端正に仕組まれる美しいものへの糾合は、必ず縦の系列を敷いていく習性をもっています。その縦の系列から切れない限りは、“醜”はいつも「美」の壁にさえぎられたままでしょう。
金時鐘「“醜”を生きる思想」『在日のはざまで』立風書房)より

この言葉は、現在の詩壇の状況にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。大いに議論し、前へ進みたいと願うのみです。