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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『環』(藤原書店)54号に「詩獣たち」第11回「すべては一輪の薔薇の内部に―ライナー・マリア・リルケ」を書いています

『環』(藤原書店)54号に、Kan54
「詩獣たち」第11回として
「すべては一輪の薔薇の内部に―ライナー・マリア・リルケ」を書いています。

今号の特集「日本の『原風景』とは何か」は
TPP交渉で農村がどうなるのか気になる昨今でしたので
大変タイムリーで、興味をそそりました。
「日本の『原風景』とは何だろうか? 
 原風景は個人的なものかもしれない。しかし、これまでこの山紫水明の風土を抱いて、日本の文化が作られてきたが、今や自らが、この百数十年でこの風土を破壊し、文化をも破壊してきている。
 一昨年の3・11の東日本大震災でも多くのものが破壊されたが、われわれが望み、自ら選択した近代化、文明化、西欧化が、先人たちによって育まれてきた文化や風土をどれ程、破壊してきたかがわかる。
 今、われわれが失ってきたものとは何か? その根本となる『原風景』の視点からこの特集を考えてみたいと思う。」(特集まえがき)

そう、「原風景」に想いを馳せるのは
自分自身の魂深くに耳を澄ますことでしょう。
各地についてそれぞれに
適切な論者による「原風景論」が立てられています。
川勝平太さんとの対談で山折哲雄さんは
日本は国土と国家の「二つの中心にもとづく楕円でできている」、そして
その楕円構造こそが「片寄ったナショナリズムを相対化できる」と語っています。
連綿と人を生かしまた人に生かされてきた「国土」、
さらには「原風景」という視点。
それをこのくにはもっと大切にしなくてはならないのではないでしょうか。

さて今回のリルケ論。
リルケは私が大学の時に卒業論文の対象として選んだ詩人です。
当時は『マルテの手記』や『新詩集』を中心として
詩人の中期を考察しました。
なぜかといえば
恐らくパリ時代の詩人の孤独や絶望や死の不安が、
精神的にもまた現実的にも前途が定まらないその頃の自分自身に
ダイレクトに共鳴するところがあったからだと思います。
まさに『マルテの手記』に出てくるような
都市の喧噪にガラスが敏感にうちふるえる共鳴の仕方でした。

しかしさすが三十年後の今は
関心の持ち方は違います。
もはや戦前とも言えるこの日本の今の社会とそこで生きる人間の心のありようは
第一次大戦前にリルケが体験した死都パリの光景と重なるのではないか―
あるいは
十九世紀末から二十世紀初頭という
生と死の意味が根本的に転換する時代を
詩人として生ききったその生涯には
今私たちが詩を書くことを励ます何かがあるのではないか―
そして
幼い抒情詩からやがて『ドゥイノの悲歌』や『オルフォイスのソネット』で
「世界内面空間」という独創的な世界を高らかにうたいあげることに成功した
詩人の魂の勝利には、
現在の世界の矛盾をも
詩の側から乗り超える可能性を与えてくれるのではないか―

そんな問題意識で書いたリルケ論です。多くの方々に読んでほしいと願っています。

ちなみに
締め切りはちょうど5月末日でした。
私の大学時代の恩師の田口義弘先生が
2002年6月1日に亡くなったことが意識にありました。
田口先生はマルティン・ブーバーやカロッサの訳でも知られていますが
代表的な訳書は『リルケ オルフォイスへのソネット』(河出書房新社 )でしょう。
『遠日点』という詩集で日本詩人クラブ賞を取られた二年後に
六十九歳で亡くなられました。
卒業後十数年して『遠日点』を介してふたたび交流が始まったばかりで
私も
大きな衝撃を受けました。
私がパウル・ツェランやネリ・ザックスを知ったのも
田口先生の授業を通してでした。
リルケの愛した薔薇の季節に出た今号を墓前に捧げたいと思います。