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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

11月17日付京都新聞掲載「詩歌の本棚・新刊評」

 「水俣に生まれた人間として/水俣に育った人間として/沈黙することは罪である/世界へ数多くのことを語り伝えていかねば/人間の愚かさのために自ら悲劇を作り出したことを伝えねば/また人間として今何をなすべきかを知らない人に/水俣を伝えなければならない」坂本直充氏の詩集『光り海』(藤原書店)の一節である。元水俣病資料館館長の坂本氏は、水俣病の証言者であろうとして詩を書き続けてきた。その姿勢がもたらした澄明な言葉の力で、水俣病の被害を受けながら生き抜いた人々の尊厳を、神話的な海の光と共に詩に刻み込んだ。

 今詩を書くこととは、声なき痛みの証言者になろうとすることではないか。

 渡辺洋『最後の恋 まなざしとして』(書肆山田)は、「透明で巨大な暴力」で世界が覆われ、多くの人が「資本にばらばらにされることを受け入れているという無力感」に静かにあらがう。今「あらたな連帯」の歌が必要だが、歌はもう不可能かも知れない、しかしみずからが「歌になる」ことは出来る――この詩集は空虚の重さに潰されかけながら、痛みの中から歌おうとする。無力感によって囚人のようにつながれた人々の心の底へ、「地下水のようにしみこんでいく」ために。

「悲しみを捨てるバケツをください/怒りを燃やしつづけるコップをください/叫びつづける本棚をわたしのまわりにめぐらせてください/これ以上言葉の瓦礫で空をふさがないでください/傷ついた夢に雨を降らせてください/暴力がわたしをくぐりぬけて/涙になってあふれるまで/時計を遅らせてください」(「三月のために」)

 山本英子『杏』(私家版)は、親子の愛の不在というテーマに挑む。それは今の社会がもたらす砂漠であり、人の根源にある飢渇でもある。その「死」から蘇生するには、自身の幼少期に向き合う必要がある。そのためこの詩集は散文的、物語的な文体をとるが、ふと立ち現れる神話的=詩的イメージは鮮烈だ。老いた義父と再婚した若い女性の面影を描く作品から―。

「せめてもの思いで私は夫に代わりその人を訪ねた 遺品の腕時計だけを受け取るとその人はようやく私の問いに答え「私たちは眼の黄色い種族ですから」と笑った//私の中でその人は後姿でいる その人は義父の車椅子を止めて 桜の海に立っている 桐の花の下に 藤の下に 石榴の花火を見上げて 森のような椿の落下を前にして 暗い火の血が燃えるのを見ている」(「みっしょん」) 

 河井洋『河井洋詩集』(土曜美術社出版販売)の作者は、建設業界で働いていた高度成長期に詩作を始めた。近代を問いつつ「自己を常に問う」姿勢が、「とまどい」と「書かなければならない」という苛立ちの葛藤をもたらしている。

「ぼくたちの民主主義が/いまだ途上にあるということ、/教えるなどという態度の驕慢さを恥じるのは/ぼくたちの風土的倫理だ。と、/あるいは/ぼくたちの「原罪」と/今日の問題は切り離すべきだろう。とか、/それは、いつも、/たぶん、という形で正しい。/そしていつも ぼくたちのとまどいは/結果として権力者の擁護でしかない。」(「もう一つの八月十五日」)

 山根悠謳『生命(いのち)、ささやく』(澪標)の作者は元理科教師。小さな生命たちの時間の証言者である。

「地蔵川の川面をそっと撫でてゆく微風/涼やかなせせらぎの音/悠久な川の流れの中で/梅花藻は揺籃歌を奏でる/時間の花は/寝息を立てて揺れている」(「時間の花」)