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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「大文字の他者」とはだれか(一)

分からないながら私は今、「大文字の他者」という存在(あるいは概念)に、何かとても興味を惹かれています。

斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』(バジリコ)は、
著者が日本一易しいラカンの入門書と自負するように、
とてもわかりやすい本でありながら、
人間が、現代人が、日本人がいかに生きがたいか、
なぜ生きがたいか、
どうすれば「生き延びる」ことができるのかを、
鋭敏に示唆してくれていて、大変お勧めです。

そこで斎藤氏から「伝授」されるラカンの考えは、

私たちは言葉に宿命的に支配されている。
私たちは誤った万能感を捨てて
言葉に宿命的に支配されていることを自覚的に受け入れる必要がある。
そうすれば言葉=象徴界大文字の他者シニフィアンの世界)から、
なにがしかの自由を許される。

というところが中心ではないかと思います。

手前味噌ながら、
本日の京都新聞朝刊の詩集評のマクラに、
ラカンについて(全く私なりに)触れました。
以下はりつけてみます。

昨年出た斎藤環『「文学」の精神分析』は、小説についての評論集だが、詩人にとっても大いに啓発される一書だと思う。社会に対し鋭敏な発言をする精神科医である斎藤氏は、ラカン精神分析学の視点から、現在の人間の魂のあり方に光を当てつつ、文学の現状と可能性を言い当てていく。その手さばきは見事だ。もちろんラカンの理論は私などには難しい。ただ同書から、恐らくラカンは詩にとっても大きな刺激となるだろうと予感する。
 我流に理解したラカンの言語観を借りて詩とは何かを考えれば、次のようになるだろうか。私たちはじつは、言葉のシニフィアン(意味を離れた純粋な音)の力によって支配されている。そもそも言葉の始まりは意味のない音だから、その力は絶対的なのだ。だが私たちは日常、言葉のシニフィアンとしての力を忘れ、シニフィエ(意味やイメージ)の次元で生きている。だが詩においては、言葉はシニフィエからシニフィアンへと原初の力を蘇らせることができるのだ。その時表層に亀裂が走り、世界の「リアル」が一瞬鮮やかに浮かび上がる──。つまり、詩とは、音としての原初の力にうちふるえながら、世界を蘇生させていく言葉と言えよう。音とは、声やオノマトペといった実際の音声に限らない。恐らくそれは、手垢のついた重い意味をふわりと打ち捨て、言葉が世界へ向かって羽ばたく輝き、つまり詩こそがもたらす真の自由のいきづきであるだろう。