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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月15日放映ETV特集「失われた言葉を探して」(3)

大道寺将司は1996年に母宛の手紙に俳句を書きました。Tokito
それ以後、手紙には俳句が添えられるようになりました。
三畳余りの独居房に一日中たった一人。
窓はあるが外の景色を見ることはできない。
そんな環境で俳句を作り続けるというのは本当に不思議に思えます。
俳句には吟行というものもあるのであり、
実際の自然に触発されて生まれると一般には考えられるからです。

「まなうらの虹崩るるや鳥曇(とりぐもり)

この句には起きなかったテロリズムの記憶があるのではないか、と辺見さんはいいます。
「虹作戦」。
1974年に天皇が乗った「御召列車」爆破計画です。
事前に計画が漏洩していると感じ、��狼�≠ヘ計画を中止しました。
(その翌日、朴正煕大統領狙撃。あの次の日にそんなことが計画されていたのか、と驚きます)
つまりこの句にある「虹」とは
獄中で幻視された、ありえなかった虹の幻像です。

「つまり架けられなかった虹の記憶である。死刑判決の後で、たった一人になって体の底から現れて来た俳句作品の中で、架けられなかった虹が架かるのだ。しかもそれは、ちゃんとした虹ではなくて、崩れた虹として瞼に記憶されてしまうということがあった。こういう風に記憶が彼において着床されている。それは彼の検察や警察における供述には一切表れていない。じつはこういう俳句作品にこそ、出来事と人間の考えと感覚が綯い交ぜになりながら、出て来ている。」

「時として思ひの滾(たぎ)る寒茜(かんあかね)」

「これも架けようとして架けることの出来なかった、あの虹作戦が、彼の回想の底に赤く滲んでいる、そんな色ではないか。いわゆるテロリズムには、まずそれを起こそうとする人間のイマジネーションのようなものがあるが、そのイマジネーションと現実の結果とは大きな差がある。例えば三菱重工爆破事件が、全く罪のない人々を殺傷してしまうというリアリティとして、出来事がイマジネーションを完全に裏切る。後の世に回想する時、思いがたぎる。彼の俳句はこのようなイメージを、全く孤立した場所で呼び起こし、それに着色していく。そんな風に、震えが来る程の孤独な作業の中でなされる。これが彼の尽きることのない、たぶん終わらない証しの立て方ではないか。」

この引用部分の末尾に出てくることば、「証し」。
これは辺見さんの話の要となることばです。
どこかキリスト教的な響きも感じます。
いつか、クリスチャンの友人が、自分の信仰体験を語りだした時
それを見た同じ信仰を持つ別な友人が
「××さんは今証しているんですよ」と評したのを思い出します。
しかし辺見さんの「証し」とは、もっといわば実存的なものです。
神のいるなしに関わらず、たった一人で自分と向き合うこと、
そして独房の闇の中でさえおのれを証明すること。

「そして、いまなにが残ったのか。(…)この〈奇しき生〉を証すこと──それが最期の営みとして残されているのではないか。大道寺将司が大道寺将司であることを証そうとする営み。わたしがわたしであることを証すこと。それぞれがそれぞれであることを証すこと、証そうと試みつづけることこそが、逃れがたく課せられているのではないだろうか。なにがそれを課しているのだろうか。神ではなかろう。思うに、生の内奥の底土(そこつち)が匂いたち、他によらずおのれでおのれを立証せよと迫っているのではないか。」(『棺一基』序文)

「所与の生、というより自覚された〈奇しき生〉が、それぞれに自己証明をする作業のために、気がつけば、ただ言葉だけが手もとに残されてある。」(同上)

「そして言葉だけが残った」という、アウシュヴィッツ後の詩人パウル・ツェランの言葉も想起されます。
大道寺将司の作句を思い合わせてこう思います。
孤絶し、言葉しか残されていない闇で
言葉によって自分というものを、そして自分のいのちを
一つ一つ螢の光のように証し闇を照らすものが
俳句や詩なのではないのか、と。
たとえ誰もそこにもはやいないとしても。