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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

3月18日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚(新刊評)

3月18日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚(新刊評)

                                              河津聖恵

 今年は宮沢賢治の没後八十年。短歌から出発した賢治は、二十六才で詩を書き始め、二十八才で生前唯一の詩集『春と修羅』を出版した。多くは戸外でなされた詩作を、詩人は「心象スケッチ」と呼んだ。心の痛みを通して見えてくる世界の輝きを、ゆたかな言葉で刻々と記した「スケッチ」は、感性による「世界の再生」の試みだったとも言えよう。例えば「永訣の朝」で詩人は、危篤の妹のかたわらで、激しい動揺のまま「スケッチ」していく。詩の最後で死は、「終わり」であることを超え、永遠の生命への「旅立ち」として輝きだす。「銀河鉄道の夜」へとつながる、祈りと共にある再生の過程としてその詩は、いつの時代も読む者の心を浄化するのだ。
 武田いずみ『風職人』(ジャンクション・ハーベスト)は、内面と外部の世界との関係を丁寧に紡ぐ、まさに微風を作るような繊細な「手仕事」の詩集だ。世界を片隅からレースのように編み直そうという、柔らかな再生の意志が満ちている。現在の暴力的な世界に、寡黙ながらも毅然と抗う姿勢がある。「風」とは、絶望の底から甦る、いのちの息そのものである。
「柔らかい植物に覆われた土地で/風を創る人/一度だけ 彼に会ったことがあります」「ほんの数十分/わたしは初めての息をしていました/体の中で/四方へ広がる風/それが彼の作品」「私は小さく努力する/そして夢見ている/代わりばえしない手のひらから/いつか風が生まれる日」(「風職人」
「けれど/おまえが生まれて初めて/外に出た春の日/病院の玄関で一瞬吹いた/つめたい風に/おまえは きゅっと/顔をしかめていた/あの時/誰よりも知っていたのかもしれない/かぜ が どこにいるのかを」(「こたえ」)

 為平澪『割れたトマト』(土曜美術社出版販売)は、ある時投げつけたトマトと共に世界が壊れた著者の、詩を紡ぐことによる魂の再生の記録だ。著者にとって詩作とは、精神の闇の底から「人に戻る」ための復活の行為であり、壊れた世界の破片を拾い上げる作業でもある。一つ一つの言葉には、人知れず流された「青い涙」が滲んでいるだろう。意味のない記号や分断し傷つける瓦礫の言葉をかきわけ、詩を探し続ける痛々しいまでのその姿には、社会から疎外されながら世界の輝きをうたった、近代以降の詩人たちが重なる。
「私たちは詩をつづる/滲んだ万年筆のインクから/本当に伝えたいのは/青い涙//眼のスクリーンに焼き付けられた/日常化する赤と黒を/鋭利な刃で記録する」「それぞれに与えられた質問用紙/青いインクは『空』を描く//胸にインクを滲ませて/私たちは寂しく停電するだろう//それでも遺さずにはいられない/記憶の森に沈まない太陽/夕映えに轟く雷鳴/稲妻のような瞬き/全ては/見開いたままで」(「眼光」)
 『シュトルム名作集�Y』(三元社)は、十九世紀ドイツを代表する抒情詩人であるシュトルムの全詩を収める。シュトルムは、大国に蹂躙されようとする小国シュレースヴィヒに住み、政治に対しても、自然に対する感受性を手放さず、抒情詩によって「無理なく対抗し得る」詩を模索した。
「新鮮な朝の時代は/足元の暗闇の遙か彼方//だから、驚かずにはいられない、ひとたび光が/その深いところに差し込みでもすると。//もう吹き始めている、墓地からの微風(そよかぜ)が/それは運んでくる、秋の木犀(もくせい)草(そう)の香を。」(加藤丈雄訳「誕生日に」)