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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩にとって熊野とはなにか(二)

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もちろん、昨日述べたような熊野の印象は、熊野の外部である「今ここ」つまり京都の自室で 書いていて生まれたものです。熊野の内部で私はこのような印象を本当に持っていたのか、怪しいのです。熊野ではただ何も考えず、言葉にもせず、やってくるものを目に次から次に映していたにすぎないのではなかったか。光と影も、自然の鮮やかさも、人々の魂の美しさも、ある結界を越えて外部に出た私が、イデアのように想起しているに過ぎないのではないか。しかしそれは決して根拠のないものではなく、観光の記憶をなぞっているのでもありません。熊野という全体のオーラと、自然や人間の事実の細部が、両極から織りなした魂の現実はその時々にたしかにあって、私はたしかにひととき「うつほ」となり、新鮮に、物や自然に近づく形で消えることが出来ていた。子供に還った、と昨日書きましたが、言い換えればそれは、これまで自分がまるでそれがすべてであるかのように信じており、信じていたからこそ自分をがんじがらめにしていた次元の言葉を、自分の外部から打ち壊してもらった、とでもいいましょうか。ヘラクレスがプロメテウスの鎖を解いたように? 

以上のようなものとしての熊野体験がなぜ私が詩を書くことにとって大きな意味を持ったか。
それは、先日取り上げた斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』の次の箇所を引用すれば、ことたりるように思えます。

「でも、マトリックスが偽物であると気づくことは、ネオに新たな力をもたらしてくれる。つまり、マトリックス内部では、カンフーの達人だったり、飛んでくる銃弾を体を反らしてよけたりできるようになる。マトリックスを「現実」と思い込んでいたら、こうはいかない。そして、ネオがさらなる覚醒に至るために、一度死ななければならなかったこと。この点も大切だ。大きな「自由」を獲得するためには、大きな「犠牲」を払わなくてはならない。そしてこれこそが「去勢」の本質なんだ。
 そう、人間は象徴界に入っていくためには、万能感を捨てなくてはならない。」

つまりここで言われる「万能感を捨てる」ための大きな契機を、熊野は私に与えてくれたと感じるのです。

マトリックス」とはウォシャウスキー兄弟の映画ですが、仮想世界のこと。詳しくはまた。