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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「白い紙と詩との仲に立つ者でありたい」

早いものでもう3月です。気がつけばひな祭り。

昨年の3月Photo_2
シモーヌ・ヴェイユを読み出していました。
気づけば生誕百年の2月をうかうかと越えてしまい
たまたま知り合った研究者の方に教えられて
かつて読みさした「重力と恩寵」(文庫版)を
ふたたびめくり始めたのです。

同書は箴言のアンソロジーです。
1942年にマルセイユから亡命する直前に
友人に託した十冊のノートから
その友人によって選び出され編集されたもの。
かつて読みさした時
宗教的な匂いに抵抗もおぼえて(ユダヤ人・ヴェイユは受洗こそしませんでしたが、キリスト教の神を深く愛していました)
かつての私には感じ取りえなかった
深さ、力強さ、美しい飛躍の文体、詩的筋力
にとても驚きました。

今ふたたびめくってみます。
やはり魂に鋭い光線のようにダイレクトに入ってくるのです。
たとえば詩にふれた一節。

「ただ、未開拓の土地と耕された土地との、問題既知事項と解答との、白い紙と詩との、飢えている不幸な人と食べ飽いた不幸な人との、仲に立つ者でありたい」

この「白い紙と詩との、」という箇所で
ヴェイユはいったい何を言おうとしたのでしょうか。
前後からすると
「白い紙」=未開拓、問題、飢えている不幸、
「詩」=耕された、解答、食べ飽いた不幸、
となるのか。
あるいはその逆なのか。
あるいはそれらはそのように機械的には照応しないのか・・・。

いずれにしても彼女は「白い紙と詩との」「仲に立つ者でありたい」と思ったわけです。
「仲に立つ」のですから、
「白い紙と詩」は対立するのでしょうか。
すると白い紙は、生活? 詩を書かせない何か? 時代の闇?

東柱の「たやすく書かれた詩」を思い出します。
「人生は生きがたいものだというのに
詩がこれほどもたやすく書けるのは
恥ずかしいことだ」

戦間期という暗黒の時代を
マイノリティとして生まれ
マイノリティの側に立ち続けて書いたヴェイユ
その「生きがたさ」は紙の白さとなって酷薄に輝いていた──
私にはそんなイメージが浮かびます。