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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

現代詩手帖12月号書評「まったき善魔と化していないか──辺見庸『生首』」

   まったき善魔と化していないか──辺見庸『生首』
                                      河津聖恵
 

 本詩集を手にしたのは五月末、折しも朝鮮学校が無償化から除外され、日米共同宣言で普天間問題の解決が実質的に閉ざされた直後である。異様な本性を剥き出したこの国の薄闇に圧倒された私は、この詩集の鋭い痛みに胸をえぐられることで、まさに救われる思いがした。薄闇には本物の闇で抗えばいい、闇よりも黒い痛みの光を放て! そう励まされたのだ。
「言は剥がれ。はがれ。剥がれ。神から言が剥がされ。神が言から剥がされ。言は抜かれ。死から言が剥がされて。躰からはがされ。骨から剥がれ。髄から言から剥がれ。ベリベリと。意味から剥離し。意味が剥がれ。肋骨から剥がれ。削られ。脱遺し。」(「剥がれて」)
 冒頭から皮剥ぎの痛みが詩集をつらぬいている。「剥がれ」「剥がされている」のは「言葉と物」ではなく、詩人自身だ。この詩集を読む者は、痛みという根源的な次元で読まざるをえないし、読まずにはいられない。やがて痛みの奥にみじろぐ他者の深い闇を感じるだろう。言葉が剥がれ落ちた「赤黒い花弁」の不穏、名状しがたい「宵藍(しょうらん)の色」が、他者の他者性として、魂に滲んでくる。
「おれはじぶんに言い聞かせてきた。ひとつのできごとを、どんなにささいではあれ、あくまでひとつの比類ない悲劇とし、こだわりぬくこと。ひとつのできごとを薄暮に溶かして一般概念化するな。抽象概念化するな。そのとき嘘はもうはじまっている。裏切りが萌えている。」(「挨拶」) 詩人は、一般概念化、抽象化という縊死から言葉を蘇らせ、生き死にしたすべての人間の思いを詩の情動で色づけようとする。みずからの総体で誠実に詩を引き受けている。だから舌根からうたうのだ。生きたいという死刑囚の叫び、三十六年前ついに架からなかった爆砕の虹、愛する死者が視ているはずの「透けて、深い」風の根の青を。類稀な技法、音感、言葉の経験知を駆使して。その尽きせぬ動因は、打ち棄てられた者たちへの肉からの愛、「書きそんじ」ではない思想への骨からの非望だ。
「あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、みずからを殺せるか、だ。」(「善魔論」) 善魔。うすっぺらな善から最大の悪を引き起こしたブッシュを、辺見庸はかつて「善魔」と呼んだ。本詩集ではしかし、同罪の筆頭として「詩人」を挙げる。「あられもない内応のプロたち」、「語の肉からの剥離を毫も意に介さぬ者ら」の王として。詩人は無辜などではなく、「もっとも罪に縁遠い顔をした」かれらこそが「真犯人(ほんぼし)」なのだ、と。
 今現代詩に、辺見庸という他者が挑む。「あの幸せな老詩人を/ぶち殺しに」行けるか、みずからを、詩を殺(や)る気はあるのか──。真闇からの問いかけに、詩人の誰の骨が蒼ざめるか、肉が疼くか。私たちはまったき善魔と化してはいないだろうか?