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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩「夏の花―鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』に寄せて」(5月3日立命館国際平和ミュージアムにて同展オープニングトーク中に朗読しました)

夏の花 ―鄭周河写真展「奪われた野にも春は来るか」に寄せて  

                              河津聖恵                                        

                                                  

世界が静かにめくれていく

何者かに剥ぎ取られるのではない

おのずからめくれ上がり裏返るのだ

それは焼亡というより

深淵の夏の開花

季節を超えてしまった下方へ

冷たい暗闇を落ちながらひらく花弁の感覚

あの日以前も背をなぜてそれは

そっと過ぎていったではないか

指先や眼球や鼓膜にも

言葉と感情はいわずもがな

沈黙と闇へだけひらく花々が咲き

そのたび唇は何かを言おうと

かすかにひらいては閉ざされたではないか

「長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。」

あの日

飼い慣らせなかったタナトスの蹄の音がきこえた

あいまいだった黒い馬の影はついに百頭の怪物となって実在し

季節と花々をたやすく踏みにじった

世界が世界の外に飛び込もうとした刹那、

白煙と黒煙が上がった

あれもまた花々だった

悪の花―つかのま永遠の喪失を罪びとたちの額に刻印して

それは忽然と姿を消した

夢の強度だけを

野という野にありありと残し

あとは誰しもの故郷のような

うち捨てられた美しさが増していった

世界が世界を剥ぎ取る痛み

秒針が世界の肉を刺す苦しみ

しかし

そのただなかから懐かしさは光りあふれやまなかった

**

「わが愛する者よ請ふ急ぎ走れ」

不思議な声がきこえた

末期に空へと向き直る

夏の花々の声らしい

呼ばれているのは蝶や燕であるはずだが

異様に澄んだ響きに私は呼ばれてしまう

私をどこかに喪った私のまなざしだけが

畦道を烈しく進み出す

私を呼ぶ花はどこか―

私が呼ぶ花はどこか―

まなざしはかすかに息をつき

寒さにかじかむ茂みや木々の葉を吹いて暖め

蘇らそうとするが

「苦悶」もなく「一瞬足掻いて硬直したらしい」

錆びたサッカーゴールや廃墟のコンクリートの壁

「ギラギラ」しない太古の暗い「破片」

草むす薄闇色の鉄路に

まなざしは長い長い腕で触れていくのだが

凍れる秋の花は現れても

愛しい夏の花は見つからない

やがてまなざしは

ふいに広く広くまなざされる

「純粋母性」のように輝く太陽が

乳のように煌めかせる川と

生命の彼方から死の岸辺へ寄せる海によって

屍体もなく血もなく

「空虚な残骸」だけが散らばる浜 あるいは

「魂の抜けはてた」地上

ここに花は咲くのか なぜ咲くのか

雲深い空にまだわずかに

あかあかと護られてある一滴の涙のためか

「無として青みわたる宙」に

今なお無数の星が生まれるからか

「星をうたう心」が「虚無のひろがり」に抗い身をもたげれば

死の破片の下からも花は咲くだろう

名もない「黄色い小瓣の可憐な野趣を帯び」た

夏の花の幻は咲くだろう

「何か残酷な無機物の集合のやうに感じられる」

人間の故郷に淡い影を添わせて

***

そしてまなざしはほどかれ

無数のまなざしとなって満ちていく

海と空 夢と現実のあわいに

夏の裏側を焼かれていく冬の白さに

雪虫のように

誰のものでもないまなざしは放たれていく

何もかもが��みている�≠フだ

遙かな過去からふりむき

死者が生者を目撃するように

ここに��みられる�≠烽フはもう何もない

神話のように

枯れ枝の先にすら祖先の眼がみひらき

摘みとる者のいない柿の実にみえない赤子は目覚める

墓に刻まれた名も

癒えることのない雪に埋もれた家々の窓も

時間の鉄条網のような送電線も

すべての生き物の救難信号のような黄色いハンカチも

無の巣のような枯れた叢も俯く老婆の銀の髪も

世界の内奥では

あの頽れた四つの鐘がみずから鳴り始めた

鐘は獣であり

何万年の未来まで あるいは古代まで

傷ついたもののうめきを響かせていくつもりだ

その残酷な悲しみを置き去りに

故郷は世界の外へまた一歩静かにしりぞこうとする

世界の縁では

ひとのような塔のようなシルエットが呆然と見送るしかない

どんなに夜が深まろうと

それらを闇に描きだす漆黒の絵の具は

世界に尽きることがない

見送るひとかげは増え

遙かな塔はあくがれるように林立をやめない

だが死ねない四頭の犠牲獣の

咆哮を聴き届けるのは

獣らを取り巻く忘却の河のほとりに密かに咲き誇る夏の花だけ

世界の苦い泥についに生まれた

反世界の小さな裸形の花だけ

あるいは花という極小の

世界の追憶、追悼の祈りのすがた

注:

「純粋母性」(藤島宇内「原民喜の死と作品」)、「無として青みわたる宙」(辺見庸「それらの骨のなかにある骨」)、「星をうたう心」(ユンドンジュ「序詩」)、それ以外は原民喜「夏の花」。