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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(二)

『死と滅亡についてのパンセ』にある思考と言葉は、
私が内臓辺りで抱えあぐねていたもやもやとしたものを触発し
そこに形を与えてくれます。
比喩あるいは詩的イメージに映し出すようにしながら。

「泰淳のエッセイ『滅亡について』は言う。『すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの』。ついで、こう記している。『すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの』。」(「死と滅亡のパンセ」)

「すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの」
「すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの」
自分のもやもやもここに関わっているのだと思います。
「巨大な海綿のようなもの」と「神の皮肉な笑いのようなもの」が
私の外部からきこえてくるだけでなく明らかに内部からも始まっているのです。
今自分でもそれがすごく怖いと思います。
たとえば悲しい出来事や他者の痛みやファシズムの脅威を目の当たりにしながら、
自分が全存在で同じ痛苦にうちふるえているかといえば
決してそうではない。
内部にぼんやりとした無感情な洞のようなものがたしかに拡がっている。
よく自分自身に耳をすませば
そこで自分の声は他人の声のように響いている。
あるときは笑いのようにしてさえ。
「悲しい」という声もまた本当には私の真実の声であるとはいいきれなくなっているです。

そう、自分の中にある声にすら不信を抱きます。
「悲しい」と言いながら本当は声の奥には響かない薄闇があり、
そこにはたしかに皮肉な笑いさえきこえている。いつからか本当はずっと。
しかしそれが予感を超え、たとえば詩を朗読する時に自分が放つ声に
「巨大な海綿のようなもの」の沈黙や「神の皮肉な笑いのようなもの」の残響を
を内奥から意識してしまったら
何か恐ろしい事態が出来するのではないでしょうか。
真摯な物言いをしながら、それがじつは自分を装っている不気味なものの声であることを声の内部から覚知してしまったら、
自分の中で何かが崩壊しはしないでしょうか。

国際電話のエコーをめぐっての声の考察に戦慄を覚えました。
「わたしの声はわたしが話すたびにわたしから離れて浮游し他者化された。それをなにか不当なことに感じ、他者化されたわたしの声をわたしは嫌うようになった。といっても、わたしの声と妖しい残響は、どのみちわたしという他者の反映なのであり、わたし=主体との同一化は、可能なようでいて絶対的に不可能なのである。ひとの開口部からいったん発せられた声はつまり、元の鞘におさまることはない。」(「声の奈落」)

かつて私もまた、いってみれば日常的に発する自分の声をどこか疑うがゆえに
声ならぬ声としての詩を書き始めたのではないでしょうか。
自分の本当の声がききたくて。
あるいはむしろ言葉という誰のものでもない声になってしまいたくて。