#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「熊野の宙返り」倉田昌紀

新鹿への迷走の続きを綴らなくてはならないのですが、
明日の熊野行きでばたばたしています。
そんな折ありがたいことに、
倉田さんからまた不思議で魅惑的なエッセイが送られてきました。
「熊野の宙返り」。そうそう。
私もまた熊野あるいは紀伊半島を京都から意識すると
「逆さま」だ
という不思議な感覚がしています。
かつてはそのようなことはなかったのに、熊野を訪れるようになってから、逆しまになったのです。
落下するように手をのばすと、熊野へ落ちていく、熊野が落ちていく───

これからしばらくは、携帯で記事アップの予定です。写真が大きくなってお見苦しいかもしれませんが、どうぞよろしく。

「熊野の宙返り」       倉田昌紀

熊野とは宙返りそのものです。それは 否から然りへの移りゆきにおいて、肯定することしかせず、それ以後は可能なあらゆる肯定をひろげることしかしません。無の無力を、無の偽りの輝きを語る私が無を思考するとき、私の思考するものは、いまだ有なのだと語るのです。語が、それの獲得した写実的有効性に従って、語りだすままに、放任するのはやめにして、熊野の発してくる源の沈黙へと静かに戻そうではありませんか。それは単純な人間的態度なのです!
  絶対的意味という理想を失い、あるいはそれから解放されて、世界をつくってゆくこと。そしてまず、世界の意味をつくり出すこと。それが、これからは人間の責務となるのだという事実の承認です。この責務は巨大で、人を酔わせる現在の熊野の宙返りです。   
「神秘的なるものへの衝動は、科学によってはわれらの願望が満たされぬことに由来する」・ウィトゲンシュタイン
 生の問題の解決を、人は、その問題の消失という形で気づきます。それゆえに、生の意義がそもそもどのようなものあったかを語ることもできません。
熊野は、ここで再び宙返りをします。生の問題は依然として手をつけられないままであるかのように。
私は移りゆかねばならず、しかもこの移りゆきにおいて滅びねばなりません。その必然性が、この乗り越えの本来的な姿において、熊野人・私を宙返りさせます。抜け穴が開け、その先に、直ちに認識の空間が無辺際にひろがっているのを、静かな勇気で明快に肯定します。それは、熊野の無尽蔵な悦びです。