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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

京都新聞「原発と国家」第二部(3)

昨日の京都新聞朝刊「原発と国家」第二部(3)も興味深かったです。

東電は、途方もない原発マネーで用地を買収し
第一原発の大々的な建設工事が始まります。
東電が作った工事の記録映画「黎明」に入るナレーションは
「地元の人たちも工事に参加する」
「靜かな田園地帯」
「過去百年にわたって地震や台風、津波などの大きな被害がない」
そして低音のピアノをバックに
「昇る太陽を持つ大地に輝かしい朝が来る」と興奮気味に伝えます。

71年3月、一号機が営業運転開始。
多くは出稼ぎしか道のなかった町民のほとんどが
原発の仕事にかかわるようになります。
町には原発マネーが投じられていきます。
原発御殿」、道路下水道整備、スクールバス、公用車、スポーツセンター、野球場、そして町や議会に与えられた「東電採用枠」・・・。

印象的なのは
大野駅は夕方になると、青い制服の東電社員であふれ返った。『すし屋のカウンターが社員であふれ返った。町民たちは小さくなって見守った』」。
というところです。
東電社員がいかに羽振りを利かせていたかが分かります。

そしてまたそこはアメリカの植民地でもあったのです。
「敷地内には、プラントの製造を一括受注した米ゼネラル・エレクトリック社の家族が住む「GE村」が完成。小学校やテニスコートも設けられた。クリスマスやハロウィーンのパーティー。運動会が開かれ、町民と交流を深めた。」

町の元原子力担当者はこう語ります。
原発事故後、避難生活を送る。『東電という甘いあめ玉をなめて、しっぺ返しを食らった』。(・・・)勤める特別養護老人ホームの入所者約100人は事故後、19の介護施設に移った。おむつ交換も一人での食事もままならない老人たち。既に7人が亡くなった。

当時生まれた原発は巨大な砂糖の山だったのかもしれません。
そして今無惨に壊れたドームは
青い蟻や軍隊蟻たちが群がってむさぼったあとの残骸にも思えてきます。