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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「フランシス水車のやうに──『吉本隆明詩全集』から視えてくるもの」

  逝去をきっかけに、吉本隆明さんについて新聞やネットであらためて話題となっています。ただ詩人としての吉本さんについて書かれたものは、まだ書かれていないように見受けられます。下記に私が2008年の『現代詩手帖』の年鑑号に書いた論を掲載します。少し絶賛調では?とやや恥ずかしさも否めませんが、恐らく当時『全集』を通してみえてきた、詩人としてのおのれをこそ貫こうとした吉本さんの清冽さに感動したのでしょう。そしてその詩に、詩とは何か、詩人とは誰か、という普遍的な問いかけによって作られているとも言える、純粋さがあったからだと思います。

フランシス水車のやうに──『吉本隆明詩全集』から視えてくるもの              

                                      河津聖恵 
 
 今年はこれまであまり読んでいなかった書き手の著作を読み込んだ。それは、現代詩手帖特装版特集に小論を書くために読んだブランショ、今年出版された『私は花火師です』(中山元訳・ちくま学芸文庫)で触発されたミッシェル・フーコー、ひょんな機会から始めた「紀州フィールドワーク」と並行して読み進めた、日本語への挑戦としてのエクリチュールを模索し続けた中上健次、そしてここで取りあげる吉本隆明である。前三者と『吉本隆明詩全集』全七巻は、つよい連関があると思う。魂の地磁気のようなつながりを感じる。
 大ざっぱに言えば、四者に共通した魅惑は、脱権力という志向だけでなく、現在に生きる私たちの魂の可能性をとらえ尽くしたい、という思いにある。かれらの文体(あるいは翻訳から感受する思考の形)が魅力的なのは、今このときに言いうるすべてを言おうと、言葉と他者へ深く身を寄せるからだ。その思想のすべてが分からなくとも、かれらの魂のあり方、傾き方はこちらの魂をダイレクトに共振させる。
 詩は文体という側面から見られることは少ない。だが私が『詩全集』から感じ取るのは、自己と他者をまさぐる内奥から、文字の表層に密着するようにしてこちらに届く文体である。そしてすぐれた文体こそはすぐれた詩の証左であると思う。すぐれた詩は、上から下へ読むのではない。詩いちめんに感受性の表面張力がみなぎり、読む前に一瞬にして「見る」、「見させられる」、「突きつけられる」のである。そのとき詩はすぐれた思想として感受されるだろう。この詩人の文体には無駄な余韻や怠惰な空白がない。虚無感や死の意識の影はたしかに射すが、思考の力が言葉をはじき返していく。もちろん言葉は光そのものになりきれはしない。だがせめて影を裏返そう、わずかにでも他者に光と感受されよう、という一貫した意志が清冽なのだ。

 物の影はすべてうしろがはに倒れ去る わたしは知つてゐる 知つてゐる 影は何処へ ゆくか たくさんの光をはじいてゐるフランシス水車のやうに影は何処へ自らを持ち運 ぶか わたしはよろめきながら埋れきつた観念のそこを?きわけて 這ひ出してくる
 まさしく影のある処から!
   (「影の別離の歌」第一巻所収、「光のうちとそとの歌」第二巻所収にも同表現)

 その詩、つまり詩における思考は、この「フランシス水車」(その響きと響きから来る透明なイメージは、詩の中にぴったりはまる)の永久運動に喩えられよう。永遠に影を裏返し(「うしろがはに倒し」)光をはじき続ける魂の水車。「影」とは初期の詩に頻出するイメージである。無意識、エゴ、孤独、死と虚無の意識など、負の価値を持つ。それは時代と幼年期から絶えず滲んでくる。むしろ、詩を書こうとするからそれは現れるかのようだ。詩を立ち上げようとする詩人の希望を侵犯するために、どこかから世界の悪意のごとくにじり寄る暗い力。影は、裏返されただけでは消えずつねに発生して堆積していく。「わたしはよろめきながら」そこから「這ひ出してくる」しかない。そして再び光に晒され影を招き、光をはじく。詩はそのような魂の水車として「孤立」して動きつづける。
 この詩人において「孤立」と「孤独」は背反する。

 そうしてぼくのこころが現在は病弱なのではあるまいかと・・・・・・最早や同じ仲間を見出 すことも出来ず、また何ものにも依存することのできない孤立のうちで それに耐える ことに習はされたこころがつぶやくのである。
                               (〈日時計〉第二巻所収)
  時々にわたしの孤独がまるで死の影を負つてきては
 このうへない暗いものを伝へてゆくけれど
 わたしはそれをひとりで耐えることができます        
                               (〈時間の頌〉第二巻所収))

 孤独は「死の影」を負い、「このうへない暗いものを伝へてゆく」ものである。それは、詩を書く私を支配しようとする暗い「権力」を持つ。孤独はかよわいものなどではない。むしろ私の根源を奪い取ろうとする死の意識として、詩の最大最強の敵である。幼年期に巣くったトラウマとしてそれは根深く、時代に負ける自分自身のエゴからも来る。だが詩とは本来そのような影に抗いうるものではないか? 吉本隆明の詩と思考と文体を支えているのは、そのような問いかけの力、孤独の侵入に耐える孤立の力である。すぐれた詩人はその力で、「何ものにも依存することのできない」という自負を支えに、「この貧しい一点」(「白日の旅から」同)から「自己表出」へと身を傾ける。詩の中で感じ尽くし、考え尽くしていくために。やがて例えば「フランシス水車のやうに」と賭けのように比喩を記すために。
 比喩とはこの詩人が最も大切に思う詩の核である。『言語にとって美とはなにか』第三章において、詩の比喩をめぐり、それこそ比喩を尽くし述べられていることから分かる。

 喩は言語をつかっておこなう意識の探索であり、たまたま遠方にあるようにみえる言語が闇のなかからうかんできたり、たまたま近くにあるとおもわれた言語が遠方に訪問したりしながら、言語を意識からおしださせる根源である現実世界にたいして、人間の幻想が生きている仕方ともっともぴったりと適合したとき、探索は目的に当たり、喩として抽出される。

 ここで印象深いのは、「人間の幻想が生きている仕方ともっともぴったりと適合したとき」という表現である。幻想とは何か。それは現実生活で受ける水圧に抗して生まれ、表現という水面をもとめ立ちのぼる、言い難い思いのかたまり、つまり言語以前の泡である。私たちの無意識には、そうした幻想の泡がフラクタルに絶えず立ち上りつづけている。見事な比喩とは、幻想の泡の経路に言語が「ぴったりと」寄り添うことで現れるのだ。別な箇所にも「詩人の現実世界における存在の仕方の根源とぴったりと対応している当たりの感じ」とある。詩においてそうした「ぴったりと」した「当たりの感じ」があって初めて、私たちは詩を書いた、読んだと実感しうる。刻々とうつろう私たちの幻想や存在の仕方に「ぴったりと」生成する比喩によって、書き読む私たちはこの世界の闇の中から一瞬煌めくように離脱できる。そして言葉にならない思いを泡のごとく解放していく。「言語からの触手」(第七巻所収)にも、「新しい概念はまったくちがう。それは実体の動きが不可避の曲線を描き、その曲率が生命の曲率にあっていなければならない。そうなったとき、ひとつの概念が自由の感じにつつまれて誕生する」とあるが、この「新しい概念」も比喩と同義であるだろう。
 社会の抑圧からの、そしてもっと根源的には、幼少期から私たちを識閾下で蝕み続ける「むごたらしい孤独」の暗い権力からの離脱と自由。それを目指して詩人は魂のプロレタリアとして詩を書きつづけ、新しい概念である比喩を探す。言語による「意識の模索」に思考と感受性を尽くし、いつか魂の内側から「当たりの感じ」を獲得することを願いながら。その「当たりの感じ」、「自由の感じ」こそが孤独と闘う詩という孤立の誇りを支えるのだ。比喩は魂がまるごと蘇生する、誰も見ていない、詩人の一つの絶対的な勝利点であり、魂のあげられる唯一の歓声、ひそかな自由の鬨の声である。
『日本語のゆくえ』で、吉本は若い詩人たちの詩を「無」であると否定した。それは今言った次元での比喩の不在を指弾したのである。突きつめればそれは、現在における孤立の難しさと他者の不在を意味するが、表現の次元では自由や離脱の「感じ」がないことを無と言ったのだ。
 一方、吉本隆明の以下のような詩行はどうか。
 
 詩は 書くことがいっぱいあるから
 書くんじゃない
 書くこと 感じること
 なんにもないから書くんさ
                   (「演歌�Z」『記号の森の伝説歌』第六巻所収)

 この「なんにもない」は、今言った意味での無とは逆に、「書くんさ」と詩を書かせるための空洞を指し示している。ブランショの言う「消え去るもののかけがえのない輝き、それを通してすべてが消え去る輝き」としての詩、フーコーディスクールの「花火師」として閉ざされた思考を爆破しひらきつづけた魂の可能性のありか、中上が文化、文学、芸能一切の発生源として想定した「うつほ」なる神話の闇と、深くゆたかに重なり合う何かである。その反重力のトポスで詩は、「フランシス水車のやうに」回り続ける。
 私たちが今見いだすべきなのは、詩が回り出すための、それぞれの孤立する空洞ではないか? 『詩全集』は、大きな連関の中でたった一人で空洞を獲得した詩人の魂の軌跡である。