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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月7日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚/新刊評

4月7日付京都新聞朝刊・詩歌の本棚/新刊評

「ひとつのどよめき――いま/真実そのものが、人間どものなかに/歩みいった、/暗喩たちのふぶきの/さなかに」。飯吉光夫『パウル・ツェラン―ことばの光跡』で紹介された詩「ひとつのどよめき」全文。飯吉氏はツェランのこの詩に「大震災のような災害時の教訓」を読み取る。たしかに未曾有の破壊は、「言葉によって築かれる空中楼閣のような詩の世界」を吹き飛ばした。「暗喩たちのふぶき」は続く。三度目の「その日」を越えた今、詩はどのような新たな世界と生を見いだそうとしているか。

 手塚敦史『おやすみ前の、詩篇』(ふらんす堂)に満ちるのは、世界が揮発した後に残ったひんやりとした薄明だ。そこで言葉は線となっては撓み折れ、あるいは粒子となり意味を透き通らせて翳らせる。テーマや「言いたいこと」は、世界や「私」の終焉というより、内的感覚に従い粒子のように動く言葉が生み出す、懐かしくも危うい気配そのものだ。作者はじつは、書く行為自体でラジカルな世界観をおのずと宣言している。言葉とは極小な私であり、私は極小である言葉なのだ、と。巻頭の呼びかけも、言葉という極小へ、極小の私へ帰れ、と命じるように響く。

ムクドリはその巣へ帰れ。//電光掲示板の文字や、フロントガラスに滲む冬光がいそがせる実像は、無傷なひかりを/ガーベラの花が似合う女の子に差し出し、虚をむすんでいく/冬木立/そのコルネットの完結した調べを窓の半面の傷みとする屈折点から、いま明るく裂開し、あなたは呼ばれている。//ムクドリは、/ムクドリはその巣へ帰れ。」(「99」)

 大谷良太『Collected Poems 2000-2009』(私家版)は、既刊詩集からの詩選集。ここにも空っぽの冷蔵庫のように明るく閉塞した気配が拡がる。作者は無為の旅人として現在だけを観察し感覚する。過去も未来もなく、私は世界と崩壊を競うかのようだ。他者との「冬の連帯」も革命へのノスタルジーも、もはや空耳のような幻想である。だが絶望を丁寧に確認しながら、言葉は詩になろうと向き直る。孤独の荒れた谷底から極小の私がなお他者を求める。最後には粒子となって砕け散りつつ。

「神がいるならば、私は神に願おう。私の死後も、きみに幸いのあらんことを。右眼を射抜かれたきみが尚も嘲笑っている。私もまたくくくと笑う。なかなかいいゲームだったじゃないか。氷雨は降り注いでいる。私は涸沢に仰向けに横たわっている。鉄路を貨車が過ぎ、電線がスパークする。なかなかいいゲームだったじゃないか。オー、オー。きみの隣に、光もまた在る。森林の呼吸。内なる敵をこそ攻めよ。私は襤褸のように…否、私は最早冷たく濡れた襤褸なのだ。鉄路に、夢が散っていた。翡翠色の夢が…。」(「襤褸」)

 内田るみ『赤い靴』(土曜美術社出版販売)は、壊れた生の破片を踏みつつ生き直す素足の、痛みと歓びを伝える。崩壊したのは「世界」ではなく「生」。だから作者は身体を手放さずに蘇生をうたう。たとえ足先だけの、孤独な痛みを伴う蘇生だとしても、それはたしかに秘めやかな誕生だ。

「生きることが/破片になって/これから歩いていく道に/散らばってしまった//これまでは/この硝子に守られて生きてきたのに/(中略)/けれど/上を向いて/これから/暖かな太陽の方へ向かうならば/これから/雨を降らせる雲も呼ばないならば//道に散らばった/鋭い硝子も溶け始めて//破片は足を守る/誰よりも/透明で/真っ赤な靴になり始める!」(「靴」))