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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

ペシミストの勇気(一)

辺見庸さんの『瓦礫の中から─わたしの〈死者〉へ』でZen_ishihara_2
石原吉郎のことばに接し、久しぶり全集をめくってみました。
黒い布ばりの表紙の分厚い本体は、いつも聖書をおもわせます。

辺見さんは「私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」
ということばを『望郷と海』から引用しています。
この「告発しない」というところは
石原自身の態度表明であると共に、
壮絶な収容所体験の中でただ一つの人間性を失わない意志を見せた人間である
鹿野武一(かのぶいち)という人の姿勢を重ねているのでしょう。

鹿野については『日常への強制』の中の「ペシミストの勇気」に書かれています。
(私は若い時これを読んで、何カ所も線が引いています。分からない、という意味でもあるし、重要だというしるしでもありました。)
ちなみに数多い石原の抑留エッセイのなかで
個人名が出てくるのは鹿野武一だけだそうです。

鹿野は石原よりも二学年下です。
石原と鹿野は同じ部隊で教育を受け、満州へ動員されました。
幾度か離ればなれになりつつ、ほぼ同じ経路を経て帰国します。
ある時期の石原にとって鹿野は唯一の友人でした。

1952年(昭和二十七年)、
苛酷な密林地帯から移動してきたハバロフスクの収容所で
二十五年囚である鹿野は
「とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し」絶食を始めます。
ようやく環境がましになり、心身が恢復できるという時にです。
それはハンストではなかったので、周囲も気づくのに遅れました。

なぜか。

鹿野の答えは意外なものでした。
その前日、他の日本人受刑者と共に公園の清掃と補修にかりだされていたとき、
市長の娘がそれを見て感動し
すぐさまに自宅から食物をとりよせて一人一人に手渡した。
鹿野もその一人でした。
その娘の自然で素直なやさしさが致命的な衝撃を与えたのです。
「このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから、鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。/これが鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へと追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。」
この絶食さわぎは
俺もやる、と言い出して絶食をはじめた石原を
見るに見かねた鹿野が、一緒に食事に誘っていちおう収束しました。
しかし
他者のやさしさが人を絶食に至らしめることもあるという人の精神の経緯の繊細さ
複雑さとは何でしょうか。

けれどそれこそが鹿野がすぐれて人間である証拠なのでした。

私にどこまで謎が解けるか分かりません。
しかし娘のやさしさが鹿野に絶食の意志、
あるいは絶食するまでの絶望をひきおこした経緯の核は
おおまかながら以下のようなものではなかったでしょうか。

ハバロフスクでの回復期では
苛酷な過去に誰がどのような非人間的な行為をしたのかが
かえって意識化され、記憶が想起されてしまった、と石原は書いています。
苛酷な体験の渦中では意識化されなかった、他人や自分の非人間的な記憶が
次々フラッシュバックしてきた。
だから娘が当然のこととして自分に見せた人間的なやさしさは衝撃だったのです。
娘の優しいまなざしは
収容者同士が自分の生存のために裏切りあった過去に対する
神の断罪のまなざしそのもののような恐怖をもたらしたのではないでしょうか。
その衝撃が鹿野に自己消滅への意志を引き起こした。
神と地獄のあいだで、息も出来なくなったのではないでしょうか。
そう思えます。
おそろしいことです。
言い換えればそれほどの人間喪失の出来事が
日々密林地帯で生まれていたということになります
(石原もすべての出来事を書き残しているわけではないのです)。

その後鹿野は絶食がレジスタンスとみなされ
取り調べを受けます。
その場面での鹿野のことばを話題にしたいのですが
長くなりすぎました。また。