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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸、デリダ、そして来年こそは言葉の勝利の年に

明日は枝川での朗読会です。
これが今年最後のイベントです。
やがて取り壊される木造校舎で私たちの声が響きます。
どんな人々が、思いが、場所が、匂いが、言葉が、沈黙が
そこにはあるのでしょう。
自分の中に知らない子供たちが、過去が、目を覚ますでしょうか。
思いがけない未来を感じ取ってきたいと思います。

今年はとりわけ「言葉によるたたかい」という次元で
詩について考えさせられることが多い年でした。
来年はますますもって考えこみたいと思います。
今年以上に詩が本来もつ力が試される年になる予感がします。

なにか」はこれからやってくるのではなく、じつはすでに訪れているのだ。戦争も恐慌も狂気も底なしのすさみも、見た目は安穏とした日常のなかにおどろくほど細かにもみこまれ、うまくコーティングされ、あたかも正常ぶって、とうにここにやってきている。私たちはそれに気づいていない。たぶん永遠に気づきたくないのだ。
                        辺見庸「水の透視画法」(本日付京都新聞夕刊)

この一年、私もネットという場所に常駐するようになりましたが
ここでは「底なしのすさみ」が
いかに日常の風景に「もみこまれ」ているかをつくづく知りました。
ここでたしかに感じたのは
今日本を席巻しつつあるのは
辺見さんの鋭い感覚がとらえているような「底なしのすさみ」であること。
いいかえれば
少しずつこの国の人の心をとらえだしているものが
アナーキーニヒリズムだということです。

ネットの「言論」の場で
いかにも「正常ぶっている」口調で
まずしい語彙数を恥じることもなく他者の尊厳を壊しつづけている
匿名の人々の嗜虐性の裏にあるのもまさにニヒリズム、そしてテロリズムです。

こうした社会で詩に可能性があるとしたら
「すさみ」が「すさみ」であることを自認させる鏡としての言葉を突き出すこと
ではないでしょうか。
それは美しい言葉とはかぎりません。
非暴力であるともかぎらない。

「有限の沈黙もまた暴力のエレメントなので、言語はみずからのうちに戦いを認め、これを実践することによって際限なく正義(justice)のほうへ向かっていくほかない。それは暴力に対抗する暴力である。(中略)光が暴力のエレメントなら、最悪の暴力、つまり言説に先行し言説を抑圧する沈黙と夜の暴力を避けるために、ある別の光をもってこの光と戦わなくてはならない。こうした覚醒は、歴史すなわち有限性をまじめに考慮に入れる哲学によって、いわば(中略)自身が根底から歴史に貫かれていることをわきまえる哲学によって(中略)最小の暴力として選びとられた暴力なのだ。」
                                            ジャック・デリダ「暴力と形而上学」)

難しい内容ですが
意味は正確にとれなくても、今私には分かる気がします。
日本を壊しはじめているのはまさに「沈黙と夜の暴力」です。
沈黙こそは最大の暴力なのです。
だからそれに抗うためにはどんなことがあっても言葉が必要なのです。
デリダの文脈にしたがえば
言葉もまたこれまで光として暴力ではあった。
けれど言葉には別の光の力がある。
それによって「沈黙と夜」、
つまり今私たちの社会にある「底なしのすさみ」に抗うことができるのです。
それはこれまでなかった新しい言葉、
危機が生みだす詩やうた、そして
共に応答しあって力を育んでいく言葉でしょう。
またそれは
みずから根底から歴史に貫かれていることと
自分自身が暴力に抗する最小の暴力であることを自覚した言葉でもあるはずです。

いずれにしても
来年こそは言葉の勝利の一年にいたしましょう!