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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『死と滅亡のパンセ』(三)

辺見さんと詩人のキリヤット・F・コーエンさんの対談、
「破滅の渚のナマコたち─亡命と転向と詩」は、大変面白かった。
現在の破滅をめぐる真摯な対話なのですが、
二人のやりとりはまるで知的な「掛け合い」で
時々噴きだしながら読んでいきました。
どちらかといえば関西弁のコーエンさんが辺見さんに突っ込んでます(笑)。

キリヤットさんはナマコを飼っているという。
「名前はエヴァや。かわいいで。ナマコはじつにええ。かれらはアポカリプスを背負うてんるやで。」
この台詞には参りました。
まさに詩の煌めくような一行ですね。

この対話は、今詩を考えるうえで重要なヒントを数多く含んでいると思います。
辺見さんは大震災後に詩集『眼の海』を出されましたが、
その時の心境についてこう語っています。

「大震災後ここまで言語世界というものが全体にパターン化し萎縮し収縮するのかとおどろいたね。(…)詩についていえば、『震災詩』という呼称からして、ぼくにはなにか生理的に堪えがたい。戦前、戦中の翼賛詩、戦詩みたいなものを髣髴(ほうふつ)とさせるしね。つまらないから、あまり読んではいないけれども、語調や表現、想像の射程の短さ、単層のエモーションなど、こういってはなんだけれど、反吐がでる。そういう言語的な潮流異変を感じて、こちらとしては別の内側の海をつくらないとやっていけないなと思ったわけさ。それが『眼の海』というぼく個人の内面の海になった。それがないと全体的なものに吸収されてしまう。」

まったく同感です。
詩は、その想像力、イメージと意味の飛躍、音の自由、文字の物資性といった要素のすべてによって、
現在のいわば言論の全体主義化において唯一、個人の「内面の海」を創造できるのです。
ここで私が注目したのは
「主体の海」ではなく「内面の海」ということです。
「主体」は海にはならないけど、「内面」は海になるということ。
そう、今拡がっていき深められていこうとしているのは
たしかに「内面」なんだなあと思う。
海面のような月面のような、うちすてられてきた、内面。

「肯定的思惟を先行させて状況全般を受容するだけでなく、批判的発想を揉み消していく重圧みたいなものが、外側からくるのではなく表現者の内側にある。言語統制をじぶんでやっちゃっている。いまの言葉にはそういうのが多い。じぶんで思想警察をやっているような、ね。まるで詩をなにか清いものだとか浄化してくれるもの、聖なるもののように、そうあるべきもののようにみているようだが、そういうのもあって結構だけれども、それだけではおかしいし、ぼくにとってはかえって恐怖のもとだな。」

また、先日亡くなった吉本隆明さんについての二人の評価も面白かったです。
吉本さんについて、吉本さんの賛美者についてこんなふうに考えることも出来るんだと色々新鮮でした。

とにかく、この対談のそこここにある辺見さんの詩へのアクチュアルな叱咤激励は、今詩を書く誰もが耳を傾けるべきものばかりです。詩人はぜひ読んでほしいと思います。

「詩はもっと現状否定性を帯びてもよいだろう。現状否定的にならざるをえない客観的理由がはっきりと現状の底にあるのだから。詩は現状の言語秩序に刃向かう純粋な犯罪、テロルであっていいという意識もぼくにはある。」

詩は意識のテロル!
私もまたこういう詩の定義をずっと誰かに語ってほしかったのだ、と眼の覚める思いがしました。
ということは、私もまた
自分の中にいつしか思想警察を飼っていたのかもしれません。