#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「私のユートピア・熊野」倉田昌紀

『新鹿』で私を熊野の奥処へナビゲートしてくれた倉田昌紀さんが、このブログに投稿してくれました。なぜ中上さんが新鹿で自給自足を試みようとしたか、そのように誘う熊野は何か、をユートピアという思わぬ観点から考察されています。私もとても触発されましたので、ここにご紹介したいと思います。なお、文末を「ですます」調に、また語彙もいくつかご本人の許可も得て変えさせていただいています。

私のユートピア・熊野

                                        倉田昌紀

私は、今、都会の癌病棟で気分のよい時に空想を楽しんでいます。紀州・熊野の海を見たいと思いながら…。特に富田の海を。    
  熊野には、規模はどうであれ、自給自足の生活を試みてみたく思わせる不思議な力があります。中上健次さんもその力を感じてしまった一人だったのでしょうか。古くなった言葉で、ユートピア・コミューン・根拠地を求めさせる、それも外部の現実に対する抵抗という意味も含めて、ふくらんでくる空想が、熊野にはあります。熊野は局地的なものです。全体の一部で、他との関係においてしか成立しない、ということはあるのですが。そうした空想を、今理論化しては説明できません。感じの段階にとどまったままのものが、空想なのですから。私は、熊野のユートピアは、個人だけのものでもいいと思うのです。個人と社会を分けずに、共通性、普遍性をもたせたい、と空想しています。個人におけるユートピアとはなにか? 集団としての人間にとっては?──この二つに共通するユートピアは、どういう条件で、どういう構造を持つものなのでしょうか。空想は尽きません。 

熊野の一木一草にユートピアがあるのだと考えます。竹内好の、「一木一草に天皇制がある。」のもじりです。言い換えれば、熊野の皮膚感覚にユートピアがある、と言いたいのです。そのユートピアは、多義的で、伸縮自在で、元型でもあるといえるものです。そして、それは、熊野の全精神構造としてあるのですから、私にとってユートピアの方法とは、私の熊野に内在するもので、他から借りることはできないのです。ユートピア・コミューン・根拠地・自給自足──そのための方法は、熊野の自生というようなものでなければならない。熊野の認識行為そのものが生み出す方法でなければならないのです。 空想は面白く尽きません。でも、抗がん剤の副作用の疲労感、倦怠感には空想も萎えてしまいます。肉体あっての精神なのでしょうか…。   
私の空想は、ある問いかけの上に立っています。すなわち、私にとって熊野のあらゆる実在は空虚を満たし、そして熊野には、何物も存在しなくてもいいのに、事実上は何物かが存在しているのは何故なのだろうか、という問いかけの上に。ある物の不在は常に他の物の現在としてあるのですから。こうした問いかけは私の錯覚にもとづくのかもしれません。私のユートピア・熊野は、病室での空想の表象の蜃気楼なのです。私という今、癌を体内にもっている人間知性の構造に基づく、閉じた内的な錯覚でもあります。しかし「ユートピアに全熊野がある」と、開かれてもいるのです。