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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月24日丹波マンガン記念館見学

先週の日曜日002
京都市右京区京北町にある丹波マンガン記念館に行ってきました。
左京区からバスで約一時間半。
丹波の山の奥にその記念館はありました。

昨年11月、韓国のユン・ドヒョンバンドが行った
記念館の再建チャリティーコンサートに行って以来、
訪れてみたいとずっと思っていました。
今回、小さなツアーが組まれると知って、参加しました。

戦前から戦後にかけて
丹波高原から京都北山一帯に約300のマンガン鉱山がありました。

マンガンは鉄を硬くするのために必要な鉱物です。
アジア太平洋戦争中、大砲などに使う鉄の増産にマンガンは欠かせませんでした。
(他にビール瓶の硝子の色づけ、乾電池、など けっこう身近に使われます。)

マンガンの採掘と運搬の仕事は
多くの朝鮮人被差別部落の人々が担っていました。
戦争中には、強制連行された朝鮮人が一部の鉱山において働かされていました。

前館長は実際マンガン鉱山で働いていた李貞鎬さんです。
苦しい生活の中、在日朝鮮人の原点を伝え残そうと
記念館を家族で手作りで作ったそうです。
しかし李さんは苛酷な鉱山労働のせいでじん肺になって亡くなりました。
その後、息子の李龍植さんに引き継がれました。
けれど行政からの援助は一切ないままでした(朝鮮人でなければ援助したのだけれど、とも言われたそうです)。
毎年多くの赤字を出し、20年目の2009年一時閉館を余儀なくされました。
しかし今年6月、再開を待ち望む声に後押しされ、再スタートを切りました。

まず労働者が暮らした「飯場」を見学しました。
3、4畳ほどの狭いスペースに何十人も寝起きしたそうです。
こまかく食事の内容まで丁寧に再現されていました。
隙間だらけの木の小屋は、
どこかドイツで見た強制収容所の空気を思い出させました。
あちらは石造りでこちらは木造りですが、
たしかに空気には非人間的な暗さと重さがあり
まだ癒えていない時の気配を感じました。
食事係のとても美しいマネキンの女性がこちらをじっと見ていました。
山には高さも幅もやっと人が入れるほどのいくつもの坑道口がありました。
実際、坑道の中に入りました。
中は上も下も迷路で、立ち入りが出来ない部分も多く
山の中に走る果てしない蟻の巣を想像させました。
ほとんど動力もなく手動で石を運んだそうです。
進むにつれ石の種類が変わる壁に触ると
地下水が染みていて冷たく、けれどたしかに人に掘られた滑らかさでした。
労働者マネキンたちが何体も今にも動き出しそうに生々しく
運搬や採掘のポーズを取っていました。

・・・・・・
この記念館を見学することで、強制労働の実際の現場を想像でき    Aut_1973
これまで抽象的だった在日朝鮮人の歴史が肉感的なものになった気がします。
しかし日本にはこのような加害の歴史をとどめる記念館は
私的なものはいくつかあっても
政府や行政からの公金で建てたものは一つも存在しません。
これは倫理的にという以前に、精神的また文化的にすごく貧しいことだと思います。
かつてドイツでダッハウザクセンハウゼン(右写真)の記念館を訪れた時のことを思い出すのです。
そうした記念館は政府と国民が主体的に建ててきたもので、きちんと生々しい展示もしています。
そして多くの国民が見学に訪れています。
ノイエンガンメ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンダッハウには記念館、
追悼施設や慰霊碑は1000ケ所といいます。
2005年には殺害された600万人のユダヤ人の追悼のために
ベルリンの中心部に広大なモニュメントを建てたのは有名な話です。
そのようなドイツの姿勢は
加害者側にとって
加害の歴史の喚起こそが大切であることを教えてくれます。
それは過ちを繰り返さないためだけでなく
自分が属する共同体の真の姿にすべて向き合っておくことこそが
人間にとって自己探求の精神を触発するからなのです。
自分という坑道を掘り進むことの大切さを彼国はよく知っています。
日本は、共同体という自分自身を主体的に成長させることの
素晴らしさを知らないまま、歴史と自身の坑道を閉ざしています。