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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

『環』59号に「詩獣たち」第16回「ガラスの詩獣―原民喜」を書いています

『環』59号に「詩獣たち」第16回「ガラスの詩獣―原民喜」を書いています。

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原爆作家として知られる原民喜

しかしその生涯と作品を仔細に追ってみると、

そのような括り方が乱暴すぎることが分かります。

本当は、あまりにも繊細で澄明な

まさにガラス細工のような「詩獣」でした。

その姿を私なりに今回の論で描き出しました。

どんな「詩獣」だったのでしょうか。

1905年、日露戦争勝利の年に、

(民喜は「民が喜ぶ」という意味です)。

広島市の官庁用達商の家に生まれました。

父を失った十一歳の頃から文学に目覚め、

中学時代に詩作を開始します。

慶応大学在学中は左翼運動に挫折し、自殺を図りますが、未遂に終わります。

この体験は精神的に大きな傷をもたらしました。

しかしその後結婚し、

理解ある妻に励まされ、英語教師を務めながら小説を次々発表していきます。

しかし妻の死後、

広島に疎開中に原爆の被害に遭います。

被爆直後から刻々と綴ったメモをもとに被爆体験を描いた「夏の花」は、

高い評価を受けます。

しかし戦後の生活苦と絶望に

詩獣は精神的に追い込まれていきます。

そして朝鮮戦争勃発後間もなく

トルーマン大統領が原爆の使用も辞さず、という報道がなされた後、

51年3月13日深夜、鉄道線路にみずから身を横たえ、この世を去りました。

享年45歳でした。

世界の絶望的状況が、

苦難に耐えながら、ひとすじの光を求めていた詩獣のガラスに、

最後の一撃を与えたのです。

この作家の魂は、

生涯、ガラスのように澄明で繊細でした。

全集第三巻にはならぶ美しい詩篇には、ただ胸をつかれます。

「いま朝が立ちかへつた。見捨てられた宇宙の中へ、叫びとなつて突立つてゆく 針よ 真青な裸身の。」(「冬」、詩の二年前)

ここには自身を針のように研ぎ澄ませ、死者と未来のために書こうというぎりぎりの生の意志がうたわれています。

「夏の花」以前の亡き妻との日々を描いた作品にみちる

死者への思いが結晶化して煌めく言葉もまた、

まさに散文詩そのものです。

しかし何よりも、「夏の花」から数年後、

死者たちへの切迫した祈りをこめて書いた「鎮魂歌」は、

この世界のどこかに永遠に響きつづける詩でしょう。

生きてゆくことができるのかしらと僕は星空へむかつて訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人の嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。

「生きよ」は、「生きよ」と「生きるな」の双方から押しつぶされる悲鳴です。

「慌しい無造作な死」を死んだ者たちの嘆きにはやがて、

原爆投下の前年にその死が「静かな屋根の下でゆつくり営まれた」妻の、

たった一人の嘆きが重なっていくのです。

原爆の記憶が風化し、

それどころか死というものが排除され、偽りの明るさがみちていき、

それゆえにゲームのように戦争を欲望しているかに見える今の世で、

原民喜の言葉は孤独です。

しかしそれはガラスの破片、

あるいは針として、

裸身をさらして挑みつづけています。

弱者を滅ぼそうとする強者たちの、今も尽きることのない欲望に対して。

そして

「人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつか地上に訪れてくる」未来を願っているのです。

そしてその願いだけは誰にも滅ぼすことはできません。

ちなみに今回の原民喜論で、連載「詩獣たち」は最終回です。

来年一月末には、連載をまとめた単行本が

藤原書店から刊行されます(タイトルは変更し、他の論も加えます)。

またお知らせしますので、

ご記憶下さればさいわいです。