#title a:before { content: url("http://www.hatena.ne.jp/users/{shikukan}/profile.gif"); }

河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『明日なき今日─眩(くるめ)く視界のなかで』(毎日新聞社)

辺見庸さんの最新著書です。Asunakikyo

最近なかなかじっくり本を読めない時間が続きましたが、
そんな中少しずつ、浸透されるように読んでいました。

表紙の写真は戦争なのか嵐なのか、
不穏な重油めいた暗い青と濃い藍が
最後の光芒をも今にも覆い尽くそうとしているようにも見えます。
あるいは、
どこにもない太陽を反射する水面の光芒はむしろそれでも残り続ける何者かの意志なのでしょうか。

まず表紙から書物の魂の世界におのずと惹きつけられていきます。

本文は四部に分かれていますが、
まずどこを読んでもというのではなく
最初から読んでいくことで濃度が高まっていく仕掛けになっています。

序曲といった感じの導入部の第一部では
的確な直覚によって暴かれる外界の真景が
魅惑的な文体によって肉感的に展開していきます。
「3072日の幻想」は、著者のリハビリの「実況中継」。
「見者」の濃密な文体とイメージの連鎖によって
日々の人知れぬ階段の上り下りが
現代への鋭敏で幻想的な批評へと転じていくのが見事です。
「ダーク&エンプティ」は、今の社会の表層とこの世の実相が貼り合わせに持つ
「闇」と「虚無」という本質を
魅惑的で哲学的な散文詩のごとき文体で
夢魔のように狂おしく描出していきます。
こういう「詩の深度」で私も書きたいと欲望させられるほどに。

第二部は
まず「瓦礫の原のランボー」。
ランボー没後百二十年」という時間の重力は、
地震原発メルトダウンという「地獄の季節」へのカウントダウンでもあったことに
気づかされ、不意を突かれました。
短い文章ですが、なぜか「惨憺としてなお美しい近現代の終わりの夕焼け」の
あかあかとした血のひかりさえ見えてきたのです。
不思議なことです。
「いま、なぜ『滅亡』なのか」は
前著『死と滅亡のパンセ』をめぐってのインタビュー。
滅亡という未来(現在)を見つめないでいることにより
矮小なファシズムをやすやすと許容するこの社会に対して
今もっとも真を突き上げる言葉を読んだ気がします。

第三部は
「沖縄論」と「金網移民」。
日本から棄民されアメリカに売り渡されている沖縄の人々にとって日本国家とは何か。
その問いかけに足場を置きながら
3.11以後起きている歴史的な変化の真相が考察されます。
「しかし、米軍の金網が境う日本の『内』と『外』とは果たしてどのような位置関係であるのか。わたしたちは『内』にいるのか、それとも『外』に棲まう者たちなのか。BEGINの比嘉栄昇によれば、『そこから 何が見えますか うた三線はありますか』の歌詞は当初、『そこからは何が見えますか ウチナー(沖縄)はありますか』だったのだそうだ。ことさらに尖ることを嫌い、『うた三線はありますか』に直したらしいが、わたしらの居るここはどこなのだ、わたしらは誰なのだ、という自己存在をめくりかえす試みは心の奥に響いてくる。」(「金網移民」)
もちろんこの「金網移民」は福島から避難した人々の
強いられてめくりかえされた存在のあり方でもあり、
ひいては3.11以後、
将来的には自分たちも国家に棄てられていくことをたしかに予感し
心の中ではもはやいつしか国家を棄ててしまった
福島外の国民をも名指す歌なのです。

さいごの第四部は、今書くことをめぐって。
その二篇「傷を受けて、ものを書く」と「短詩に命を賭けること──『棺一基 大道寺将司全句集』の衝撃」には
今なお詩を書く私の身のうち深くは熱くなりました。
「傷を受けて、ものを書く──そのこと自体が希望なのではないかと。人間というもののの凄さですよ。(…)瓦礫のなかで一生懸命言葉を拾い、自分の思いを言葉にするということ自体、素晴らしい人間の能力です。自分に備わった能力を確認していくことこそが、人間の希望なのだと思います。」(「傷を受けて、…」)
「生と死のあわい、自分を過酷なまでに抑制するところと、欲望するところのあわいの、揺れる表現はあってもいいだろうと。」(「短詩に…」)

上の「傷を受けて、ものを書く…」の一節に感銘を受けたので、次のような返歌を詠みました(今Twitterで続けている『#連歌デモ』の投稿歌として)。

「遺伝子に傷を受けつつなお詠う言葉の手負いの獣らわれら 」

この一書を
今滅亡の世の底で
言葉を手放すまいとするすべての人に読んで欲しいと思います。