10月10日と11日、山形国際ドキュメンタリー映画祭を見に行きました。
10日は「ともにある」部門での、岩崎孝正監督による「自然と兆候/四つの詩から」を、山形美術館内の会場で見ました。
福島に生まれ育った岩崎さんは、原発事故後の福島の風景を撮っている鄭周河さんの写真に触発を受け、自身の「風景論」を撮り始めたそうです。この映画では、日韓二人の写真家とオーストリアの監督の、フクシマ/福島との向き合いを追い続けます。
日本の写真家は「歴史の痕跡が自然に覆われていく」姿を、韓国の写真家は「日常を手放さない人々の意志」を、オーストリアの監督は「人間が滅んだ跡に繁茂する自然」を追いフクシマ/福島に分け入っていく。かれらの文明観や自然観によって異なる生命体となるフクシマ/福島。
各作家の経歴の説明などが省かれているため、難解に感じられる部分を残しながらも、とても重要な問いと意味を孕んでいる作品に思えました。
ちなみに私も他二人と共に朗読で出演しています。原爆ドームの周辺で読んだのですが、その体験は大変貴重なものでした。
岩崎さんは当日が30歳の誕生日でした。この作品は、原発事故の本質に固有の角度で迫った点が評価されましたが、今日の上映を機に、さらにどんな新たな手法を模索されていくのか楽しみです。
70年代から90年代にかけてプロテストせずとも生きられるという実感の積み重ねの結果、社会運動への信頼感が薄れた日本。
この作品は、そんな日本を変えた3.11以後の反原発運動のドキュメンタリーです。
何か遥かな過去にも思えるような、あるいは私が見逃していた過去のような、人々の声と言葉と感情の貴重な記録でした。
岩崎孝正さんとは対照的に、小熊さんは「物語」をためらっていない。登場人物はみな前を向いて語るのです。しかし無数の人々のうねりや動きはたしかに伝わってきました。
限られた時間で伝えることの難しさもあるのだろうと思います。 会場からも意見があったように、ポジティブな印象のラストには、安倍政権の今を思えば私も違和感がありました。しかし、これは違和感もOKと小熊さんは述べました。
映画の後には、討論会もあり、参加しました。そこでは、ドキュメンタリーが歴史と記憶にとって持つ役割の重さについて考えさせられました。
ドキュメンタリーは見て終わりでなく、各自が参加意識を持ち能動的に「プラットホーム」にしなくてはならないと小熊さん。
「メッセージでなく色々な話を触発できればいいと思った」。
会場から「声を出さない人の記録はどうなるのか」と問われると、
「知識人の代弁は必要ない。自分たちがやればいい。その能動性が歴史と社会を形成する」と小熊さんは応答した。
一方それに対しては、東京とは違い受け身的メンタリティがさらに強い地方で、能動性をどう促せるかという、地元で活動する方の意見が出されました。
またアーカイブ云々以前に、人は今むしろ熱心にSNSで自分を記録し続けているのでは、というIT関連の仕事をしている人からの問いに対しては、
「今人は存在の危機からツイッターなりある共同体を意識して記録するが、それも消えてなくなりうる。それを超えるものを創れるか?そうと分かった上でやるしかない。」と。この答えは、同じく表現活動をする私自身にも重く響きました。
討論会の中では5分、周囲の人と話し合うための時間もセッティングされ、私は隣の新潟から来た30歳くらいの男性と話をすることが出来ました。その方とは地方と東京の違いから話を始めました。各地方を星座のように結んでいく方法が必要という意見で一致しました。
いずれにしてもこうした議論が出来る2011年から始まった震災をテーマとする「ともにある」部門はとても貴重に思います。文学でも政治でもない、ドキュメンタリー映画だからこそ、見る側は3.11に立ち返り、今を揺さぶられることが出来るのです。2017年も見に来たいと思います。