徐京植(ソ・キョンシク)さんの評論集『植民地主義の暴力』(高文研)は
被害者における加害性を考えるときに、大変触発的です。
アウジュヴィッツの生き残りである、イタリアの作家プリーモ・レーヴィに
「灰色の領域」という作品があるそうです。
「それは自分たち生き残り(ナチズムの被害者)のなかにも純粋な被害者とは言い切れない「灰色の領域」があるという、きびしい自己省察である。レーヴィは「自分たち生き残りはほんとうの意味での証人ではない」とまで言う。ほんとうの証人に値する人々はみな死んでしまった、自分たちは誰か他の人の場所を奪って生き残ったのだ、と。」
私もフランクルの著作などで読んだことがあります。
収容所内部の、被害者同士の凄惨な生存競争について。
徐さんはこの本を「被害者の中に浸透した加害性という問題を、究極の条件において考察した論考である」と言います。
しかしそれは「被害者にも加害性があるのだから加害者をきびしく追及する資格がないとか、結局のところ誰が加害者で誰が被害者かを決めることはできないなどと言いたいからではない」。
ナチは、被害者である囚人を、他の囚人を殺す加害者にも仕立て上げました。
それは「被害者から、「自分は無実だという自覚」すら奪いとる「最も悪魔的な犯罪」を犯したともいえる、とレーヴィはいいます。
そんな被害者が、自分の加害性を思い出すのもつらいでしょう。
では何のために、レーヴィのようなナチの被害者が、
内部を切開し、みずからに浸透した加害性を、繊細なまでに考察する必要があるのでしょうか。
それは、ナチの収容所を作り上げたシステムの「非人間性と残酷さの真実を明らかにし、より深く理解するため」です。
レーヴィは「囚人の中の(ナチ当局への)「協力者」の行動に、「性急に道徳的判断を下すのは、軽率である。明らかに、最大の罪は体制に、全体主義の構造自体にある」と述べます。
アウシュヴィッツの被害者に浸透してしまった「加害性」。
しかし最大の罪は、あるいは最終的な責任は、
そうしたシステムを作り上げ、運用したものの側にあるのです。
「その加害責任を相対化してはならない」と徐さんは主張します。
つまり言い換えれば、
私たちが被害者における加害性の浸透、
つまり被害者もまた加害者であるという部分にも眼を向けて考察するのは、
ただ人間の複雑さとか、人間の闇をいうためのみであってはならないのです。
けっして、人間の闇という内部にだけとどまるだけは十分ではないのです。
みずからにある人間の闇を、恐れず、罪を認識しつつ、繊細に見つめながら
そこからこそ、被害者をも加害者に仕立てるシステムの責任を訴えていくことが大切なのです。
被害者がみずからの加害性を深く、繊細に、痛々しく見つめることで、
そこまで被害者を追いつめたシステムの悪の真の姿はおのずと顕わになっていくはず。
加害性の認識とシステムに対する告発は、その深さにおいて、連動するのです。
そしてその連動のために、文学や詩こそが中心的な歯車となるでしょう。
観念的な告発の言葉だけではシステムはその真の恐ろしさを表しきれない。
文学や詩の言葉の力こそが、
表現者自身の内部という灰色の領域を抉ることで、
本当の加害者を名指すことができるのです。
なお、先日話題にした「紫陽」21号に記事について、同誌の主宰者京雑物さんがブログhttp://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/06/blog-post_10.html?showComment=1276270382178#c756530597750157517で言及してくれています。