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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社)�A

今何が起きているのか、
現在の真景とはいかなるものか。
この明るい闇に暗順応し
私たちはそれをつかみ、突きつけなくてはならないのです。
それが今ぎりぎりに残された抵抗です。
狂気を狂気としてまなざす眼力。
それこそが
狂気が正気然としてまかりとおる絶望的な今において
まさに生きる力とつながっていくはずです。

しかし
私たちの内部においても明るい闇が深まっています。
そこに何かがいなくなり
代わりに何かが居座っているのですが
私たちはそれが自分でも見えないままです。

「向かい合ふ監房虚(うつ)ろ走り梅雨」(大道寺将司)

この句から
辺見さんの胸底に見えてきた、死刑囚が「いなくなった自分」を見つめる絶望的なまなざし―。

大道寺死刑囚は向かい合う無人の監房の闇に「いない」自分が座っているのを幻視しました。
正確には
「〈いない自分〉あるいは〈いなくなった自分〉を座らせてじっと見ていた」のです。
死刑囚にとって「いない」という感覚が
どれほど絶望的なものか
想像するに余りあります。

一方私たちにも、死刑囚におけるようなリアリティはなくとも、「いない自分」あるいは「いなくなった自分」はいるのではないでしょうか。
「いる」という感覚よりも、「いない」という感覚の方がつよいのではないでしょうか。

辺見さんは言います。
今すべきなのはその「いない自分」または「いなくなった自分」と向き合うことではないか。
私たちはその「観照の方法」を大道寺死刑囚に学ぶべきではないか。
すると暗闇の中から新たなファシズムの姿が見えてくるのではないか。

そう、今来たるべきファシズムは外から暴力的にやってくるのではありません。
「凍てついた魂で予感するなら、このファシズムはなべてならず、じつに手ごわい。動員と統制の時代がくるなどと私はわかったようなことを書いたことがあるが、それは実際には一九三〇、四〇年代の再来とはずいぶん異なるだろう。石川淳の『マルスの歌』についても何度か述べてきたのだが、石川淳が三七年に耳にして嫌悪したような軍歌がそのままこれからうたわれるわけでもない。(略)思えらく、これからの新しい『マルスの歌』とは、谷川俊太郎長田弘の詩みたいに不気味なほど優しく、ときには『平和』という言葉をたくさん織りこんだ、およそ軍歌らしくない軍歌なのではないか。」

来るべきは優しいファシズムです。
動員と統制も、すぐには強権発動されず、
戦争協力のための義務規定を「国民保護」といってのけるように、
「言葉のすべては優しく巧みに裏返されコーティングされている」ファシズムです。

つまりそのファシズムは、私たちそれぞれが耳ざわりのいい歌の「優しさ」に危険を感知し、
その正体を見極めようとしないかぎり
我知らず、おのずと内面化してしまうものなのです。
つまりそれはまさに「自分のファシズム」です。
そしてそれが、いつしかいなくなった=連れ去られた自分の代わりに
まるで新しい自分のようにそこに座っているのです。そうなってはもうおしまいです。

「新しい『マルスの歌』はきっと国家から無理にうたわされる歌ではなく、私たちが心のうちでみずから口ずさむ、どこまでも優しい歌であろう。まずは怒りを殺したい。静かな心で暗闇に向かい。〈いなくなった自分〉を見いだしたい。奪われた意識の空洞にいまなにが居すわっているのかを手探りしたい。自分のファシズムの質を知りたい。」