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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

四方田犬彦「舟」

「三蔵3」に掲載された四方田犬彦さんの「わが煉獄・抄」に感銘を受けました。その第一番Image967目の作品「舟」を転載させて頂きます(以前も書いたように、私はキーボードで打ちながら、指先で詩にふれるのが好きです)。ランボーの「酩酊船」が140年の流浪ののち、この現在という真空にさまよい出てきた気さえします。けれど「船」ではなく「舟」であるのは、なぜなのでしょう。

「わが煉獄・抄」より

                                                四方田犬彦

小さな舟に乗る人たちよ
もうわたしの舟を追ってきてはいけない
わたしは誰もが波跡を残したことのない
あの残酷な海をこれから渡らなくてはいけないのだから
使い馴れた手綱もなく 北に頂く星辰もなく
戯れに善意を振りまく鴎も絶えて近づこうとしない
昏い拡がりに向かわなくてはならないのだから
だからもうこれ以上 沖に出て わたしを追ってはいけない
わたしはこれから一人で進むのだ
吃水低く 汚れた髪を潮水に濡らしながら
海に棲まうさまざまな化生を尻目に
御徴の星が墜ちて残された暗黒のなかへと
誰にも知られることなく 罅割れた龍骨を向けるのだ
心善き人よ ここからはわたしを追ってきてはならない
きみたちは湾岸に戻り もの靜かな水を日がな眺めて暮らすことだ

きみは尋ねる
その危険な海の彼方に何があるのかと
略奪すべき家畜や財宝 奴婢とすべき女たちでも待っているのかと
何もない ただ何十もの夜を乗り越えたすえ
わたしが到着するのは 惨めな岩礁
波に洗われるたびに 岸辺の海草がわずかに揺れる
穴だらけの岩盤 生けるものの姿とてない岸辺
そんな世界の果てになぜ向かうのかと きみは尋ねる
いや 実はそうですらない もはやそこには
岩礁もなければ 海草も波の飛沫さえもないのだ
そこでわたしは待ち続ける
自分の一生と等しい長さの時を
まったく無為のままに 留まり続けるのだ
暗黒の天蓋の下で わたしは何を待つのだろう

だから けっしてわたしを追おうなどと夢見てはならない
きみがいくら声を大にして呼びかけようとも
いかに美しい歌を唱えようとも
わたしはほどなくして
きみの声の聞こえないところに行ってしまう
丸い地球の曲がりの向こう
もはや鴎も波音もない 時間の外側へ出ていってしまう
待つ目的がわかれば 待つことの半分は終わっているというのに
罅割れた龍骨だけを頼りに航行するわたしには
はたして自分が何を待っているのかを 知らされていないのだ