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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

5月6日付京都新聞・詩歌の本棚/新刊評

5月6日付京都新聞詩歌の本棚/新刊評

                                        河津聖恵

  辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』が出た。テーマは詩、言葉、声から、個、国家、歴史まで幅広い。だがその全ては詩に深く通底する。辺見氏は大震災以後、こう問いかけている。「言葉はとどいているのか。とどいたことがあったのか。とどいたふりをしてきただけではないのか」。根源的な、そのような疑念を抱えながら、今なお書くのはなぜか。氏は言う。「つまり世界は狂っていないということを前提するような目がありうるのかどうか。そこに僕はとんでもない不信感をもってしまった以上、詩でも書くしかない」。つまり詩とは今、狂っているのに正気然とした現実から、実相を暴き出す行為だ。あるいは現実の狂気に、魂の豊かさとしての「狂気」を対峙させる表現なのだ。
 たかぎたかよし『うつし世を縢(かが)る』(編集工房ノアは、熟練した筆致で古典的とも思える情景を描く。その過程で心や時間の本質が淡く絵画的にあぶり出されるが、そこにはつねに静謐さと激しさがせめぎ合う。場面はいつも何かが終わった事後だが、一方何かが突然兆す不穏な気配も濃い。ここにある物狂おしさや疑念の正体ははっきりとは書かれていないが、それらが辺見氏の抱えるものと相違しないことは、たしかに伝わってくる。
「風が止んだのか/青い花叢の手前で蟻の列が乱れている//胸を衝かれて/静まる一劃/空には/まっさらな白が東を指している//時間(とき)のしみ入った/草や木の/呼吸とは違って/昼の月/ふっと 吹き返されそう//たまらなく黒を掃きたくなる//影を? 人の騒ぎ戯(ざ)れ言の/いや すべなく消えねばならぬ/今日の誰か」(「雲を描く」)
「道の踏みかたが/一足ごと ことごとく違っている//疑え 疑え なお/小止みなく/夜への足どりを ね/雨が叩いている//水はねるのは私のでしかない日脚(とき)の急ぎ//ぜひもない旦夕(あさゆう)を/今日と/ゆえ止どめるように呼んでみてほっとしている」(「雨の反芻」)

 藤井雅人『ボルヘスのための点景集』(土曜美術社出版販売)は、「二十世紀アルゼンチンの偉大な文学者」ボルヘスへ捧げられた散文詩集。ボルヘスは一般に短編作家として知られるが、視力を失った晩年には作品は凝縮され、「散文詩との区別は付けがたいものになった」。その作品意志を受け継いだこの詩集には、大胆な物語設定の散文詩が並ぶ。その中でも大震災の「震撼の中から直接生まれた」という「掌」は異色。現実の狂気の様相を、掌に載せてあらためて実感し、そこに見えてきたものを丁寧に描出している。
「静止しながら重くなっていく掌がある。微動だにせず時の波をかき分けていく指先。その柔和さから、畏怖すべき黒い光が避けがたく発している。」「またある時、掌のうえに整った農地を、群れ立った水の爪が侵していった。瓦礫の領土がひろがるのを止める術はなかった。水の鎌は二度、三度とゆらめき、人のわずかな望みまでえぐり取った。海辺で地底の火を盗んだ炉が破裂し、白い毒気におおわれた土地は無人となった。透明な死の棘のまわりに立ちすくむ人々に、戻れる時は来るのか。」
 丸山真由美『停留所(バスストツプ)』(編集工房ノアは、「生きているしるし」としての詩を、「ふわりと」確かに、日常の風景に刻印する。
「大いちょう三本/天へ向かって/黄を放つ/目だけになって/中宙(なかぞら)に豆粒のような人影を見る/わたしに手を振る/言い残した話のつづきだろうか/物語はいつもこの辺で躓く」(「岸辺」)