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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「詩と文学とトークの会」in熊野市立文化交流センター(二)

2月21日に熊野市立文化交流センターの交流ホールで行われた「詩と文学とトークの会」で私がした話の大体の内容です。中田重顕さんから送って頂いた写真もアップいたします。

みなさま今日は来ていただき、どうもありがとうございました。S004_2
熊野のこの地で、熊野の詩を朗読させていただくということは、本当に嬉しいことで、
こうした機会を与えて下さった熊野市立図書館の皆様そして中田重顕さんに、感謝したいと思います。
まず、お話をさせていただき、それから朗読を2篇読み、それからまたお話を少しして、また朗読を2篇することにします。

まず、今日読ませていただくこの『新鹿』についてお話させていただきます。

私はこの詩集を2009年3月に出しました。これは私の8冊目の詩集です。これまでの7冊とこの詩集は大きく違っているのですが、それは、これまではとりわけ詩の舞台を、特にどこか具体的な土地に設定することはありませんでした。ただ少し例外として、H氏賞を頂いた詩『アリア、この夜の裸体のために』の中の詩では、例えば、新幹線で京都から東京に向かう車内から見た風景を描いたものはありますし、あるいは、ドイツでバスに乗っていたり、駅で座っていたりという設定の詩はあります。けれどそれらはいずれも、乗り物に運ばれてどこかに行く途中にある、という設定で、辿り着いた場所で書いたというものはありません。だから、そうした作品では、場所を描いてはいますが、どちらかといえば、傍観者的で、自分の内面が中心で、描写の言葉も、抽象的な言葉が多く、分かりにくいと言われたこともありました。
しかしこの『新鹿』では、そうした書き方とは違って、熊野という具体的な場所に降りたって、そこを、意識的に描こうとしています。もちろん内面的な事柄も書いていますし、言葉の遊びもたくさんしています。しかし、読んで下さった方からは、前に比べてとても分かりやすくなった、という感想が多いのです。私自身は、とりわけ分かりやすく書こうと思ったわけではないのですが、そういう声が多かったです。その理由を私なりに考えてみると、まず、具体的な熊野という一つの土地に降りたって、見聞きする熊野の自然や人間に接して、いわば外部や他者との具体的な出来事が生まれたということがあります。ただ、熊野に来た当初は、熊野での体験を詩にS008_2 しようとは特に考えていませんでした。では、なぜ熊野の詩を書こうと思ったかといえば、熊野の美しさにも感動して、ということもありましたが、まずは熊野を案内してくれた白浜町・富田の倉田昌紀さんから、ぜひ熊野の詩を書いて下さい、というオファーを頂いたということがあって、正直にいうと、そのプレシャーがあって初めて書き出したのでした。倉田さんは、熊野に生まれ育って熊野を愛している方で、私に熊野の魅力を伝えようと大変骨を折ってくれましたので、その恩返しでした。しかし最初は、旅の印象にもとづいて書く、というのは抵抗がありました。何か平凡な書き方のように思えましたから。しかし、京都に帰ってきて、詩を書こうとする段になると、不思議なことに、熊野での記憶が特別なものとして輝き出しました。とても不思議です。たしかに実際の旅の時空で、熊野の輝きに感動したというのはありました。いつも熊野に来ると、光がとても明るくて、影もゆたかに濃くて、つまり風景の陰翳がとてもゆたかで特別な印象がありますが、しかしむしろ熊野が熊野として輝くのは、京都に帰って、いざ詩を書こうとする時でした。詩を書こうとすると、記憶が、ぱーっと輝きわたるのです。そのときは熊野での時間が、現実のものというより、すでに虚構のものとなって立ちあがってきます。そして言葉が次から次へと湧いていきます。これまで、具体的な場所を持たず、書いてきたやり方では、言葉を繰り出すのに大変苦労したし、それだけに精神的にも、言葉を見せるのだという気負いがありましたが、『新鹿』ではそうした気負いをそれほど感じないで、書けたと思います。言葉は、立ちあがってきた「熊野」という虚構の時空にそって、それ自体がいきづいて、のびのびと動いていったという気がします。記憶にもとづいた虚構となって現れた、物の形や人の言葉や、光や影、つまり熊野のオーラをまとった記憶の空間で、言葉が詩として自然と動いていった、のだと思います。そのためなのか、書いているうちに、不思議に日本語が自由になって、短歌や俳句にあって詩にはリズムがないのですが、そのリズムを取るような、浮遊感が生まれたりしました。これは、私がこれまで書いてきたやり方だと、意味やイメージの重さに負けてしまいがちだったのですが、そうした重さが、「熊野」という詩の舞台では、あまり感じなくてすんだ気がします。
その自由になった感じがよく出ている作品として、この近くにある「花ノ窟」を舞台とした作品である「花ノ窟」、それからやはり近くの「鬼ヶ城」をうたった詩を読みます。

あとは、熊野に来て、熊野が色々な分野での著名人を生み出していることを知りました。とりわけ、新宮市出身の中上健次さんは、熊野についても非常に奥深いエッセイや鋭い評論を書かれていて、中上さんの熊野でのルポルタージュである『紀州−−木の国・根の国物語』は、その内容や発想のゆたかさはさることながら、その日本語がとても刺激的で、この本を読んでから、熊野という場所が、私にとって、生きている言葉の森のように、うごめきだしたという感じがあります。また、2007年新宮市図書館で、中上健次さんが亡くなる直前に収録したビデオを観まして、そのことは詩集のあとがきにも書いたのですが、そのビデオで中上さんは、「熊野とは何か、それが熊野なのだ。問いがない限り熊野の輝きはたちまちに消えてしまう」と言っていて、そうした「熊野とは何か」という問いかけは、まさに私にダイレクトに入ってきました。それは作家の最後の訴えでしたが、凄く切実な感じで、ビデオを観ただけでしたS010 が、何か私にも「熊野とは何か」いう問いを与えられた気がしました。またこの詩集は、中上さんの文章からの引用が多いのですが、とりわけこの作家に深く関わるのは、表題作の「新鹿」です。ご存知の方も多いと思いますが、1980年にこの作家は新鹿で農業をしようとして半年間住んだということがありました。それで、その場所に私たちも2007年3月に、先ほどの図書館に行ったあとにに行ってみました。道を尋ねた地元の方がご親切にも軽トラックで案内して頂き、辿り着いた「開墾地」でも、当時中上さんに農業の指導をされた方が出ていらして、作家が植えた椿の木や水仙や柿の木などを指さしてくれました。早春の夕暮れの風にそよぐ花や木を見つめながら、ひととき作家に出会ったような感慨にふけることが出来ました。その時の詩を、連作として二篇に分けて書きましたので、まずその第一作目の「新鹿(一)」を読ませて頂きます。それから最後になりますが、「獅子岩」を読みます。これも同じ日に、新鹿に行く前に立ち寄りました。