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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

辺見庸『眼の海』(一)

辺見庸『眼の海』(毎日新聞社)を読了しました。Menoumi

これまでこんなレクイエム詩集を読んだことがあったでしょうか。
言葉の力と想像力で
死にゆくあるいは死せる世界を
これほど大胆に奥深く魅惑的に身じろがせようとする
言葉の繊細でつよい意志にみちた詩集を。

細部と果て、骨片と美しい星雲、被災の光景とヒロシマ、死者と生者、男と女、声と声…
もはや解体するだけの世界の中で
孤独に散逸していくしかないそれらを
この詩集のことばは
蚕の糸のようにそっとむすびあわせ
偶然のままに隣り合わせてまなざしを交わし合わせることに
見事に成功しています。
それは愛の実現にも似て、しかし非なるものです。
共生の感情や悲しみにも似て、やはり非なるものです。
もっと鋭くも薄く、濃くもはかない出会いにみちています。

終始、名づけがたい感情(あるいは無感情)が
読む私の胸の中に浸透してきました。
冷たい「零度の」解放感(あるいは解体感覚)に身の内がひそかにふるえました。
まったくおおげさではなく、
この詩集を読んでいる時(あるいは詩集の内部にいる時)
自分の隠されていた深い諦めや幼児的なよるべなさや
物質的なまなざしや
感情を貫く無感情の氷柱が
等身大に蘇ることができたのだと思います。
この詩集の内部をくぐることで
震災の死者を想おうとすれば
哀悼しようという意識の下に押し隠してしまった
自分の涙の真の裸形がふくらんでくるようでした。

もちろんこれまで死者に対する哀悼の方法を
私も私なりに模索してきたと思います。
しかし哀悼しようとすればするほど
自分の首をしめるような不可能感と閉塞感に襲われました。
どんな言葉も空々しく自分の中に響くようでした。
けれどこの詩集を読み
恐らくその時私は言葉を
生者の責務というものに縛りつけていたのではないかと思い知らされたのです。
言葉はもっと生者の権力から解き放たなくてはならなかったのです。
(そもそも言葉とは
これまで生き死にしてきた人間の記憶が滲みているものなのですから。)

骨より花に
骨から星へ

七月の夜ふけ
それらの骨のなかにある骨から
半透明の
天蚕糸(テグス)状のものが
ふたすじ
地上にそっとあらわれて
正気でも狂気でもなく
ひたすら
無として青みわたる宙を
のびあがり
ゆらめき のびあがり
年老いて もはや死ぬるばかりの
惑星状星雲NGC7293まで
のびはてて
地と天を
はるかにつないだ

骨より花に
骨から星へ

惑星状星雲NGC7293は
エゾムラサキにおおわれた
もう骨だけの
盲者と?者の記憶に
残りの星雲の
つかれた血を
ほんのすこし
送りとどけた

骨から星へ
星から骨へ
                    (「それらの骨のなかにある骨」)