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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

「人は幻想なしに生きていけない」という心配には及ばない

昨日ジジェクを話題にしましたが、Jije_2
このスロヴェニア出身の哲学者は、ポスト構造主義者とか、マルクス主義者とか、精神分析家とも言われますが、
かつて数冊の著書に、難解ながらも魅惑された私には
ラカン派の精神分析による政治や文化現象の解読者」という印象です。
私はラカンの著書は余り理解できませんでしたが
斎藤環さんの『生き延びるためのラカン』(バジリコ)で
少し分かったつもりになったという気持になった覚えがあります。
そこでラカンって面白いと思ったのは、
言葉や欲望が本来空虚であるものであって、
じつはその空虚さこそが人を結びつけたり、資本主義や人間の文明を持続させているという考え方です。
しかも欲望は言葉が作り出すもので、だから本当は人間にとって欲望以上に空虚なものはないのだけれど、
不思議なことに私たちは日頃自分の欲望こそを最も実体的に感じてしまうこと。
そうでなければ生きていけないという人間は面白くて恐ろしい存在。
そのようなラカンの欲望についての考えは
今を生きるみなが小耳に入れておく必要があるのではないでしょうか。
自分が望む貨幣や人のまなざしが
不在である時に最もつよく欲望の対象となる「対象a」なのだと心のメカニズムとして把握しそこから考えていくのは
色々な社会的な事象の奥にあるものを考えるために有効だと思います。
対象a」とは完全な他者としての対象ではなく、
じつは自分自身が深く関わる幻影であって
実際は小文字aの存在に過ぎないものです。
ラカンの考えを学ぶことで、
そのような正体のあっけない影に振り回されないよう、
そのメカニズムを逆手にとるということも可能ではないのかと思います。

さて、昨日はオキュパイでのスピーチを紹介しましたが
最近ちょっとジジェクをふりかえるきっかけとなったものがあります。
5月1日の朝日新聞に掲載された
東浩紀氏のインタビュー記事。
東氏は独自に憲法改正案を作り、今夏発表するとのことです。
記事の中の東氏の発言にあった次の箇所にあれっと思いました。

──改正試案のコンセプトは何ですか。
「『ストックの国家』と『フローの国家』の両立です。ストックとは、1500年前までさかのぼるひとつの精神的な共同体としての日本です。幻想かもしれないが、幻想なしには人は生きていけないから、試案では日本という国を尊重しろと書き、天皇は元首として位置づけました。他方、日本国籍を持っている人が世界中に散らばり、世界中から様々な国籍の人が日本に入ってくるという、フローを前提にした憲法をつくる必要がある。」

後段も国際交流をうたうようでいて
「国籍」という言葉をやけにあらっぽく強調していて気になりますが、
前段も試案とはいえ、「精神的な共同体」には驚きました。
本気なのでしょうか?
あまりにも稚拙なクリシェですし、
そういうクリシェは今や普通シニカルにしか使えないはずです。
まあ試案であり、誰がどんなふうに憲法を改正することを夢想するのは勝手ですから
その内容についてはここではとりあえず問いません。
しかし気になったのは
「幻想かもしれないが、幻想なしには人は生きていけないから、試案では日本という国を尊重しろと書き、天皇は元首として位置づけました。」
というところ。
恐らくこれはジジェクの『幻想の感染』のとても表層的な換骨奪胎です。
ジジェクは幻想とは、物語や他者との関係が絡み合って生まれる、欲望に方向性を与えるものであると言っています。
つまりそもそも幻想とは、明示されていれば幻想にはなりません。
天皇」という明示された「幻想」は、ただの抑圧的な「表象」にすぎないということです(表象を守るためにきっと治安維持法なども生まれる危険があるでしょう)。
そもそも私たち人間にはいつしか幻想が骨身にまで染みこんでしまうからこそ、
それを解きほぐすために精神分析以前も以後も様々な思考と象徴化の努力を続けてきたのではないでしょうか。
つまりこの東氏の発言は、幻想という言葉が引き起こすべき文脈とまるで逆なのです。
ジジェクを故意にB級化したような無責任な放言としてしか聞こえません。

もちろん私たちは「人は幻想なしに生きていけない」というご心配には及びません。
人はこの世に生まれてからすでに限りなく幻想に感染しているのですから。