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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

7月16日付京都新聞/詩歌の本棚・新刊評

7月16日付京都新聞/詩歌の本棚・新刊評
                                      河津聖恵

 御庄博実氏と石川逸子氏による合同詩文集『哀悼と怒り─桜の国の悲しみ』(西田書店)が出た。御庄氏は医師として広島の被爆者治療に当たり、内部被曝を追究してきた医師。石川氏は通信「ヒロシマナガサキを考える」を、昨年百号で終刊するまで二十九年間発行し続けた。反核を貫いてきた二人が、大震災と原発事故への「哀悼と怒り」をうたい(=訴え)合わす一集。詩の主体は「私」を超えた、類としての感情である。「哀悼と怒り」という感情こそが今、詩のアクチュアルな力の源であると実感させられる。もはや詩とは、原発事故という帰結を生み出した世界の表層的な散文脈に、魂の深みから鮮烈な亀裂を入れる、感情の仕事ではないだろうか。
「そうだ お前を助けられなかった 父は/せめて お前の子どもを/でも どのように/この ぎっちり 原発に囲まれた列島で//夜/ひとりの父親の/嘆きが 怒りが/いらだちが/一つの小さな星となって/この列島をかすかに照らしている。」(石川「ヒロシマ連祷43」)「庭で首をつった93歳の彼女をだれが責められよう/たどたどしい遺書と 愛用の手押し車が残されている/「原発が奪った大往生」とM新聞の第一面 一号活字の重さを忘れない/ひとりのいのちの重さを忘れまい」(御庄「避難」)
 橋爪さち子『愛撫』(土曜美術社)は、散文脈をいきなり破壊したり、切り裂いたりはしない。生活や人生の光景に眼と耳をこらし、遙かな宇宙と自然から照応する何かをふうわりと呼び込む。救いようのない人の営みの姿が、その瞬間、比喩やイメージを介して宇宙に愛撫され、清冽な詩へと変わる。次の詩では、病院の前で開診を待つ鬱屈とした人々を、紋白蝶のイメージによって宇宙的な次元へ美しく救い上げた。
「どの人も/背の羽が剥がれ落ちてひさしい//モンシロ蝶は ときに/何万という帯状の大群になって海をわたる/疲れると/海上に降りて片羽を海にくっつけ/もう片羽をヨットみたいに立てるという//剥がれ落ちたわたしたちの羽もまた/ときに片羽を水に休ませながら/果てしない飛行をつづけているのではないか//伴奏者みたいに常に/わたしたちの耳のそばを夢のなかを/わたしたちの血脈の深みを/原初の星の青いまたたきになって/ほとばしる祈りになって」(「はね」)
 季村敏夫『豆手帖から』(書肆山田)もまた、感情のうねりから生まれた詩集だ。体言止めや音韻の分解による切れ切れとした沈黙と、余白に感じられる息遣いの激しさ。そこにもまた大震災の死者への「哀悼」があり、かれらの死の理不尽さとそれを忘れる社会への「怒り」が満ちている。だが詩人の語る声は、いつしか死者の声と内側から同一化し、静かにうたい合わされていくのだ。
「いたいけなものが/殴打される/うちすえよ/応懲せよ/広場で絶叫する人びと//地ひびきあがる喝采の日/哺乳瓶が吹き飛び/汚物とともに/転がりつづける/(略)/やさしさとか 絆といって/だれかが だれもに/だれもが だれもに/似ていってしまう晴天の日」(「晴天」)
「気づいていたのにできなかった、ならば今から、その考えはかえてください。しがみつくやよい童子を見つめてください。へたれこむ人のそばに座ってください。そこから、考えてください。//六十六年前のひろしま、今のふくしま。し、島々、はなれ、ちかづく、し、ふり、しきる日。」(「ある一日」)