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詩空間

河津聖恵のブログ。この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

4月20日付京都新聞「詩歌の本棚・新刊評」

  詩を書く行為は、人のどのような営みにたとえられるのか。夢見る、歌う、泣き笑う――。古来そのような人間的行為は詩と密接に関係している。だが現代詩は、人として生きるために必要な行為がおのずと抑圧されてしまうから、生まれるものでもある。「ひっかく」「刻む」「噛む」に喩える詩人もいた。今詩をテキストを超えて行為として捉え直すことは、新鮮であり必要だろう。

『金堀則夫詩集』(土曜美術社出版販売)は「掘る」。個人詩誌「交野が原」を三十年以上発行し続ける作者は、七夕伝説の発祥地である大阪府交野市に定住しつつ、同地の歴史にロマンをかき立てられ「フィールドワーク詩」を綴ってきた。その過程で姓「金堀」の起源を追究し、農耕と鉄というテーマに行き着き、天の星と地底の鉄が牽き合う壮大な叙事=抒情詩をものした。詩人は詩の鉱脈を求め漆黒の闇を「掘る」。ペン先から微光を放ちながら。

「葦の/広がる古代は 未来へ消えていった/星の輝きも宇宙へ帰っていった/星田の地に/その根が生きていたことを/知っていますか/葦の根に/褐色鉱が出来るのを/葦の豊かさは/鉄の豊かさ/稲作の始まる/弥生は/鉄分を吸い上げる稲穂に/星が/土と水の実を結んで黄金を輝かせる」(「豊葦原」)

 たかぎたかよし『路傍 scene』(霧工房)は、「身じろぐ」。詩集の主体は、各所で立ち現れる「人」だ。草や木と混然としながら、「人」以外何者でもない身じろぎをする「人」。それは「心」の顕現だ。心そのものとして淡く繊細に描かれる「人」は、時に首を傾げ、反り、頷く。それは作者が詩へと放心する一瞬の「身じろぎ」でもある。

「棘きりりと/花点々と白く/天上に//倒錯かしら/ええ 野の径なかです/人でしかないですね 私は//ぺきぺき 狼藉 いいえ/地の茨折りしだいて//今日 人心の/私です」(「野茨を抜けてゆく」)

岩井洋『地下水道』(竹林館)は「聞く」。作者は長年下水道の仕事に携わってきた。詩集のタイトルは、ワルシャワ蜂起の悲惨な結末を描いた映画から取られた。虚実が入り交じり、下水道というモチーフから必然的に社会への風刺や批判も生まれる。だが刮目すべきは、そこで働く者だけが感受する抒情だ。詩人はかすかな水音を命の音として、そして光としてさえ聞く。深夜、耳にした美しい旋律の正体は――。

「本当のことを言うと/蛇口からは、ひとしずく/水がふくらんでは/落ちていただけだったのに、ね//やがて、朝になると/光のしずくが部屋に満ち//そこには/君のきりりと美しい姿が/映し出され//流れる水とともに/生きる力があふれ出てきて//君と僕の一日は/きっと、そのように始まる/きっと、そのように――」(「小夜曲(セレナード)」)

 楡久子『明日への体操』(詩遊社)は「結ぶ」。作者にとって詩とは、現実と非現実の契りを結ぶことである。しかしそれは梢に結ばれた和紙のようにゆるい。そのゆるさが、比喩やリズムや発想の自由へと豊かにつながっている。

「詩歌と契りを結んだんだ/あの木の上の/高いところに/白い和紙が/結んであるだろ/あれだよ//熱い夏の風が吹いても/雨にも/鳥が来て啄んでも/ほどけていないから/まだ大丈夫/花が咲いて/葉が出て/しらずゆるんで/結びがほどけても/泣かない/鳥が嘴の先をぬぐうのに/使ってくれたのなら/それで/よしとしておく//詩歌小僧は/傘をふりふり/そう話して/林の奥へかえっていったよ」(「誰にもいわない」全文)