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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

詩にとって孤独とはなにか(三)

コトバとはよくも悪しくも大いなる他者だと思います。

今、ラカン精神分析についてよく耳にします。
そこにコトバを指して「大文字の他者」という用語がありますが、
私なりにもそのような捉え方で、
今コトバについて考えています。

私を支配しつづけながらけっしてその全貌をみせないもの−−
私は語ったり書いたりすることで、その存在を体験はできるが、
その体験をけっしてすべて意識化することはできないもの−−−

斎藤環さんの著書を最近読んでいます。
そこから私がコトバについて理解できたのは、
以上のようなことです。

そして私なりにさらに考えるのは、
コトバが私を越えた「大文字の他者」であるのは、
それがこれまでに生き死にしてきた無数の人々の、
願いや悲しみや痛みや喜びが、
すべてのコトバに滲んでいるからではないか、
ということです。

だからそれは時に、
理解不能の責務や倫理を私たちに負わせる。
原因不明の歓喜と陶酔を与える。

とりわけ詩人のコトバとは、
コトバそのものがあげた、
コトバ自身に対する呪詛であり、賛歌であるのではないでしょうか。
コトバにはそのような残響さえ永遠にひびきのこっている。

コトバが「私だけのコトバ」から
「大いなる他者」としてのコトバへと変わりうること−−
コトバはそもそも私にとって他者であり、
だから煌めく無限の関係性へとひらかれていること−−

それらの覚知は、とてもゆっくりと生まれてきましたが、
私のささやかな死の体験が私にくれた贈り物だったかもしれません。