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河津聖恵のブログ 「詩空間」

この世界が輝きわたる詩のプリズムを探しつづける。

3月2日付京都新聞掲載「詩歌の本棚・新刊評」

 間もなくまた三月十一日になる。この四年間でこの国の人と社会はどのように変わったか。確かなのは、当時望んでいたような状況にはなっていないこと。だがもし自分の内側も変化しているならば、外側の変化を言い当てるのは難しい。しかし世界は悲惨な事実を積み重ね続ける。このような現在に対し、詩はむしろ「変化しないもの」を、臆せず突きつけるべきではないか。言葉の美しさと気高さが持ちうる倫理だけは、変わることはない筈だ。

 一月十八日に御庄博実氏が亡くなった。被爆者でもあり広島の医師でもあった詩人は終生、核と対峙する倫理を求めて書いた。死の直前に出た詩集『燕の歌』(和光出版)では、詩の倫理を鳥のイメージに託し、未来に向けてうたった。

「嘉屋部岬 平和の礎(いしじ)よ/チチ ハハと呼び交いながら/海に沈んだ若い「いのち」よ/いま再び いくさのにおいが流れてくる/貝になった「いのち」よ/燕になって 帰ってこないか」(「燕の歌」)

 相野優子『ぴかぴかにかたづいた台所になど』(ふらんす堂)の作者は明石市在住。処女詩集上梓からまもなく阪神淡路大震災を体験した。「きびしい現実の前で、私の詩は竦んでしまった」という。その後約十八年詩から離れた。だが東日本大震災は再び書く決意をもたらした。「世界の遠いかなたの歓びや哀しみに震える共鳴体でありたい」と。本詩集は、「小さな台所でお惣菜を作る毎日の主婦」でもある詩人として、「いちばんたいせつなことを/かろやかに かろやかに/つたえようと」する。いわば「共鳴体」の倫理がここにある。

「訪う人はささやかでももてなす/季節の野菜や魚に塩をする 酢につける/古くなったあまりものに火を入れる/ごみにするときには必ずかなしむ/ひとつくらは自分をねぎらうことがある/その場所からは続いているらしい たとえば/三途の川音が聴こえるあたりでふり返ると/はるかにいのちを見晴らせるところ/青々と伸びる雑草のあいまにも見える/水にうるおうゆたかな水田/小さな船で大海原を漁(すなど)る男たちを/こらえて見守る女たちの/いのちのふしぶしを鎮めるような唄/祖母の炊く黒まめの匂い//しみだしてゆけ/その場所から ひたひたと/腹の底にたたんできたものたち/せつなさのやわらぐ方向に 思う人に/あしたに きのうに/みちてゆけ」(「ぴかぴかにかたづいた台所になど」) 安水稔和『春よ めぐれ』(編集工房ノア)は、阪神淡路大震災の死者への追悼詩集。神戸市長田区で被災した作者は、今もあの日の揺れと炎の記憶の中にいる。言葉は本来、記憶の内側の者と記憶の外側の者を繋ぐものだ。だが時間の経過は、むしろ両者の深淵を拡げ続けた。作者は引き裂かれる心の痛みを、木の「癒傷組織(カルス)」にたとえる。

「カルス【callus】/傷ついたとき受傷部分に盛り上がって生ずる癒傷組織。/ここで質問。/この九年間ずっとこの木は焦げた樹皮を落とし/カルスを生じてきたのでしょうか。/これからもこの焼けた木は焦げた樹皮を落とし/カルスを生じるのでしょうか。/――ほんのすこしでもいい、思ってください。」(「生きのびる」)

 若松丈太郎『わが大地よ、ああ』(土曜美術社出版販売)の作者は、原発事故後も南相馬市に住む。内側にいる者だけが伝えうる彼地の荒廃。「ひとであるあかしとして」の痛みと怒りと祈り。本書は今詩の倫理とは何かを読む者に鋭く突きつける。扉の鳥の羽の放射線像と共に。引用の余裕はなくなったが、必読の詩集。